いま仮に、関東大震災の折に虐殺された、朝鮮半島出身の少女の手記があったとします。日本で、それを舞台化し、多くの人が反省をもって作品を鑑賞する、といったことが考えられるでしょうか・・・?

 目を背けたくなるようなヘイトスピーチなども見られる現代の日本では、なかなか考えづらいように思います。そうした、直視すべき現実を考える「公共」について、いくつか検討してみたいと思うのです。

震災哲学熟議

 少し先のことになりますが、4回目の東京大学哲学熟議を東大本郷キャンパス理学部1号館「小柴ホール」で、9月7日(日曜日)14:00-17:00執り行う予定です。パネリストはロバート・ゲラ―(東京大学理学部)、杉本めぐみ(九州大学持続可能な社会のための決断科学センター)、一ノ瀬正樹(東京大学文学部)ほかのメンバーです。

 例によってgakugeifu@yahoo.co.jp宛てにお名前とご連絡先を明記してお申し込み頂ければ、どなたでもご参加頂けます(入場無料)。

 追って告知をお出しします。今回はまた休日の開催ですので、学生に限らず社会人の皆さんにも広くお運び頂ければと思っています。

 今回の話題は、これと根ではつながっていますが、表面は少し違った問題、公共性と表現というトピックスです。

 「関東大震災」の折、パニックに陥った日本人の手によって、多くの朝鮮半島出身者が命を落とし、あるいは甚大な被害を被ったことはよく知られている通りと思います。すでに91年も前のことで、当時を知る人はほとんど地上にはいなくなってしまったことでしょう。

リアルに受け止められていない「アンネ」

 人は時間や空間の距離が生じると容易にリアルな感覚を失ってしまうものです。いま、関東大震災の最中に襲われた、朝鮮半島から来た人々と言えば、日本人には空間的な距離感が少ないので、現実をイメージしやすいと思います。

 震災の混乱の中、日本人の自警団的な集団が民兵化して暴走、朝鮮半島出身者を襲い多大な犠牲が出たこと。正確な資料に当たっていませんが、その中には大人のみならず子供も老人も含まれていたことでしょう。

 そこで命を落とした少女が、日記をつけていたとしても決して不思議なことではありません。私たちがそういうドキュメントを認識していないだけのことだと思います。

 これと同様の現象が、こと欧州の出来事になると全くピンとこなくなる。その典型が「アンネの日記」だと思うのです。