以前のコラム「わが子を現役で東大に合格させる方法」で紹介したわが家の長男が家を出て、一人暮らしを始めることになった。下北沢にある1Kのアパートで、すでに契約も済ませたから、このコラムが公開される頃には、息子は自分一人しか住む者のいない部屋で寝起きする生活を送っているわけだ。家賃も水光熱費も親である私共が支払うのだし、週末には晩ごはんを食べに志木の家に帰ってくるという。「独立」には程遠いが、それでも大きな一歩を踏み出したことに変わりはない。

 6月中旬のある日、私は息子に付き合って何軒かのアパートを見て回った。大学生協と提携している不動産業者から、予算に応じた2~3の物件をすでに薦められていて、まずは駒場のキャンパスまで徒歩で通える距離にあるアパートに向かった。それから下北沢まで歩き、駅前にある不動産業者にもう少し良い条件のアパートをいくつか紹介してもらった。そのうちの2軒に連れていってもらい、あとから見せてもらった方の部屋を借りることに決めた。

 あまり詳しく書くと居所を特定されてしまいそうなので適当にぼかしておくが、閑静な住宅街にあるアパートの2階である。狭いながらもベランダがあり、見晴らしも良い。この部屋なら気持ちがクサクサすることもあるまいと考えて、少々予算オーバーの家賃を引き受けることにした。アパートから駅までの道を戻りながら、私は息子を通じて下北沢の街と縁ができたことを喜んでいた。

 私は北海道大学に現役で合格したが、留年と休学を1年ずつして、たっぷり6年間の学生生活を送った。卒業と同時に24歳で結婚したものの、子供ができるまで7年かかったため、休日には妻と連れだって渋谷や六本木や銀座に出かけてはよく映画を観た。しかし、下北沢には一度も行かなかった。当時は浦和に住んでいたので、新宿駅からさらに小田急線に乗り換えるのが面倒だった。それに下北沢といえば学生向きのおしゃれな街という印象が強くて、ようやく大学生を終えた私は、その街を食わず嫌いにしていたのだと思う。

 ところが、今回初めて下北沢に行ってみて、私は認識を改めた。いかにもそれっぽい古着屋やエスニック料理のレストランなどは珍しいとも思わなかったが、繁華街を抜けると落ちついた住宅街が広がっていて、その対比が新鮮だった。

 私は4歳までを新宿区上落合で育った。母方の祖父母が四谷3丁目にいたので、東京都内の景色には馴染みがある。電信柱よりも高い街路樹は滅多になく、表通り以外は信号機もあまりない。坂が多くて、歩行者用のガードレールも多い。区の掲示板があちこちに立っている。家々の玄関先には石蕗や木賊が生えている。住民は徒歩と電車と都バスで移動するのが基本で、自転車やオートバイや自動車は商売をしている人が荷物を運ぶために利用するというのが、私の23区内に対するイメージである。