1月末封切りとなったネルソン・マンデラの自伝を映画化した「マンデラ・自由への長い道」をやっと見に行った。
昨年12月、95歳で死去したマンデラについてはいまさら説明する必要もないと思うが、彼は、南アフリカで反アパルトヘイトに身を投じ、国家反逆罪で27年間の獄中生活を送った。その後、釈放されたマンデラは、94年南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国初の黒人大統領に就任し、ノーベル平和賞など数々の賞歴を持つ政治家だ。
映像を目にしながら、昨年自伝を公開し注目を集めているアフリカ系ドイツ人、テオドール・ミヒャエルさんが頭に浮かんだ。
テオドールさん(89歳)は、かってドイツの植民地であったカメルーン出身の父親と旧東ドイツ出身の母親の間に生まれ、肌の色が黒いという理由で、人種差別に苦しみ続けながらも波乱万丈の人生を送ったドイツ人だ。
ワイマール帝国、ナチス・ドイツ政権下での体験、そして人生後半にはドイツ情報局の上級職員にまでのし上がったテオドールさんの経験した人だからこそ語れる壮絶な生涯を追ってみた。
植民地からベルリンにやって来た父、テオフィルスとの思い出
カメルーンは1884年からドイツの植民地だった。テオドールさんの父親テオフィルスさんがベルリンにやって来たのは第1次世界大戦勃発前1903年頃。テオフィルスさんはドイツ属領の住人としてドイツパスを有していたため、訪独も簡単だった。当時は「肌の黒いドイツ人」として友好的に迎え入れていたそうだ。
ベルリンに到着すると、テオフィルスさんは地下鉄工事現場労働者、無声映画の脇役、サーカス団のイベントに出演しながら生活した。その後、旧東ドイツ出身の女性マルタさんと知り合い、1915年に結婚。
1918年、第1世界大戦の終了で、カメルーンはドイツの植民地でなくなった。失業者が600万人以上にも上った終戦当時、一般市民は、かつてのドイツ属領の住民に職を取られまいと敵対心が増していった。
マルタさんとテオフィルスさんの間には4人の子供が誕生、テオドールさんは1925年、末っ子として生まれた。ところが、母のマルタさんは妊娠中から病気がちで、テオドールさんが1歳の時、死去してしまった。
テオドールさんは、3歳頃からサーカス団で未開人文化や生態の展示ショー(Völkerschauen)で肌の黒い人たちを紹介する「アフリカショー」に出演、フラスカートを腰につけて、歌ったりダンスを披露した。その時、はじめて自分が他の子どもと違うと気がついた。
「子供心にも本当に嫌だった。見物客が自分の髪の毛を触ったり、どんな匂いがするんだろうと近寄ってきたりして見世物になるのは耐えられなかった。そんな中ただひとつ嬉しかったのは、父からアフリカの歴史やメルヘンを聞いたり、様々な話をする時間が共有できたこと。今思えば、束の間の幸せな時期だった」
しかし1929年頃、父テオフィルスさんは「4人の子供を養っていくだけの経済力がない」という地元青少年局(Jugendamt)の見解により、親権を剥奪された。