「人殺し」には2つの種類しかない。意味のある人殺しと、意味のない人殺しだ。
アラブの春から3年たった中東地域の行く末を占えるかどうかは、この2つの違いが分かるか否かにかかっている。
イラク中部の都市ファッルージャとラマーディは、激しい戦いの結果、イスラム過激派組織に占領された。レバノンのベイルートではイラン大使館の前やヒズボッラーの拠点でも爆破テロにより、多くが死傷し、反シリア体制派のジャーナリストも暗殺されている。また、エジプトの地方都市では爆弾が爆発し、多くの無辜の市民が犠牲になった。そして、リビアでは、あふれる武器によって、テロや襲撃事案も頻繁に起きている。
とりわけ、シリアでは戦闘がいたるところで継続し、死傷者の数ももはや集計できない状態だ。シリアでの犠牲者数を確認できないことから、スイスでのシリア和平会議を前に、国際機関はすでに死傷者数を推定することも放棄してしまった。
中東における「人殺し」には、それを行う理由が間違いなくある。しかし、中東地域の未来を塗り替える可能性がある、意味のある「人殺し」はめったにない。だからこそ、人は多くの意味のない殺戮にとまどいを覚え、悲嘆にくれる。
「トーフー・ボーフー」(混沌)こそが次の秩序を生む
中東地域は、今どこに向かおうとしているのか。
「革命」から3年が経った今、不完全だが、その最初の答えを出せる時期がようやくやって来たと筆者は考えている。
なぜなら、相次ぐ殺戮の中で、中東地域の混沌がまさにその佳境に達しようとしているからだ。そして、多くの人殺し、すなわち意味のないノイズの中から、意味のあるシグナルがようやく生まれようとしているからだ。少し逆説的だが、中東地域にとっては、混沌こそが次の秩序を生むために必要な営みなのだ。