京都・清水寺が発表した今年を表す漢字は「変」だった、と聞いた。大恐慌以来の金融危機、「変化(チェンジ)」をスローガンに掲げたアフリカ系オバマ氏の米大統領選勝利、世界各地の異常な豪雨や旱魃(かんばつ)といった気候異変、秋葉原などでの無差別殺人や幼い子どもを狙い打ちにする事件・・・。確かに、「変」が多発しており、その限りではこの漢字が選ばれたことに納得がいく。

 しかしながら、国際金融をめぐる各国の動きや外交・安全保障、それに国内の政治情勢に強い関心を抱く筆者からすると、今年も日本に限っては相も変わらぬ風景が繰り返されたという感を禁じ得ない。日本が先月のG20金融サミットで存在感を示せなかったことは前回指摘した通りだが、国際舞台での日本の埋没は10年ほど前からずっと続いているのも事実だ。安全保障分野では、冷戦後の厳しい周辺情勢や「テロとの戦い」という新たな局面に直面し、日本の安全保障の将来を見据えた戦略的検討が求められている。にもかかわらず、国会では与野党がいわゆるテロ特措法を政争の具にするという愚を犯した。

 国内政治では、本来は行政府をコントロールすべき立法府の一員が、テレビの「官僚叩き」で溜飲を下げるという醜態をさらしている。厳しい不況でしかも総選挙前という事情を割り引いても、「今の日本に必要な政策は何か」と正面から論じることもなく、与野党が軽々しく人気取りに走る様は情けないというほかない。

歴史認識、「言論の府」が議論封殺

 これらの論点はいずれ触れていくことになるが、今回はこうした「不変」風景の中でも、政府高官の発言で浮き彫りになった極めて強固なものを取り上げたい。高官とは今年10月当時自衛隊の航空幕僚長だった田母神俊雄氏であり、「不変」のものとはいわゆる「戦後レジーム」のことだ。

田母神前空幕長、持論を正当化 参考人招致で

田母神前空幕長、参考人招致で熱弁〔AFPBB News

 田母神氏は民間の懸賞論文で「日本が侵略国家だったというのは濡れ衣だ」と主張した。それが、先の大戦に関する政府見解と異なる主張を公に行ったのは不適切だとして更迭され、防衛省退職を余儀なくされた。その後、参院外交防衛委員会が田母神氏を参考人招致したが、与野党とも同氏に持論の展開を認めず、審議は省内手続きに関することに終始した。田母神氏の発言を問題視して「文民統制の危機」を叫びながら、その主張内容の検証を意図的に避け、「言論の府」のはずの国会があたかも歴史認識に関する議論を封殺しようとしたかに見えた。

 国会だけではない。新聞やテレビも一部を除き、反論や根拠を明示することなく「不適切だ」の一点張りだった。国際メディアにもまともに取り上げられてはいない。一方、田母神氏の主張をめぐっては、いわゆる保守論壇の間でも意見が大きく割れた。このため、少なくとも活字やテレビの上では田母神氏を支持する側の旗色は極めて悪い。

批判許さぬ「東京裁判史観」と「村山談話」

 しかし、本当に田母神論文は箸にも棒にもかからない代物なのか。以下ではこの件に関する筆者の見解を述べたい。

 まず、田母神発言の態様やタイミングは確かに悪かった。よりによって、政府高官が懇意にしていた企業経営者の公募論文で意見表明をしなくてもよいはず。また、対外的な意見発表に当たり、省内手続きは官房長への口頭連絡で済ませてしまったという。論題は航空幕僚長の職務と直接関連するものではないが、過去の日本の戦争の評価を現役の自衛官(事実上は軍人)が公に行うことの政治的意味を考えれば、慎重さを欠いたという批判は免れない。

 さらに、表沙汰になったタイミングが最悪だ。いくら保守派と目される麻生太郎氏が首相とはいえ、総選挙前でしかもテロ特措法の延長是非が与野党間の重大争点になっていた。そんな中であの論文が出れば野党やマスコミの格好の攻撃材料となる、という点に思いが至らないのであれば、田母神氏の見通しは甘過ぎたと言わざるを得ない。

  しかしながら、こうした手続きの稚拙さやタイミングの悪さと、内容の問題とは全く別物である。そして、田母神氏の論理は一部マスコミがヒステリックに批判するほど、荒唐無稽なものでは決してない。ところが与野党やマスコミはおろか保守論客の一部までが、何物かを恐れるかのように有効な反論もせず、田母神論文をただただ罵倒した。

 こうした光景を目撃して、筆者は日本が依然「閉された言語空間」に封じ込められていると感じた。「閉された言語空間」とは、占領下日本で行われた米軍の徹底的な検閲と日本人への戦争犯罪意識の刷り込みのため、独立回復後も日本人自身による言論統制が続いているという主張を、評論家の故・江藤淳氏が表現したものだ。占領時代の米軍の検閲や宣伝の凄まじさについては、江藤氏の同名著書(文春文庫)を読んでいただきたい。

 太平洋戦争や平和憲法、中国や韓国との関係、あるいは核武装の是非に関するこれまでの議論を振り返ると、「それは事実なのか」「正当な主張なのか」というより、「そんなことを言って大丈夫なのか」という指摘や批判が多くはなかっただろうか。