先日、学会報告のためグルジアを訪れた。その際、グルジア正教会総主教イリア2世を表敬訪問する機会を得た。そして、ほかの数人の外国人参加者とともに、学会参加者を代表してスピーチをする栄誉を筆者も与えられた。
その後、総主教のお言葉を賜わり、その中で「日本の古い詩句」について詳しく話をされた。
もちろん、カトリックやほかの正教徒のみならず、イスラム教徒も含めた訪問団の中で、日本について取り上げることは無難な選択であったかもしれない。
それでも、総主教のお話しぶりは日本文化への強い愛着が垣間見えるものであったし、グルジア人の日本文化への高い評価の表れの1つと考えてよいだろう。
総主教の引用された詩句の内容は、春には一面花が咲き誇るが、やがて冬になると雪が辺り一面を覆い、白一色となる。その光景の中では、善と悪の区別も難しい。しかし、やがてまた春となり、雪は解け、花の季節が始まるというものであった。
自然の移ろいの中に哲学的な命題を織り込まれているところに感銘を受けておられるご様子だった。
グルジアは非常に強固な親日国であり、その理由は簡単に言えばアジアとヨーロッパ(ないし中東とロシア)の「二重現象」である。むろん、この現象自体が興味深いところだが、それについては稿を別にするとして、今回はこの日本贔屓ないし、日本ブランドそのものについて簡単に思ったところを記したい。
特にソ連時代に植え付けられた古き良き日本への憧憬イメージの強固さと、これと裏腹の時間的劣化への強い危惧の念である。
日本に対する高い評価
約20年前に初めてグルジアを訪れたときから、それこそ毎日のようにグルジア人の日本に対する高い評価を体感してきた。それはもちろん先人の努力の賜ではあるが、現在も変わらぬその思いの強さに驚かされることもしばしばである。
グルジアにおいて、日本に対する評価で一番よく耳にするのは伝統を守りつつ、高度な工業社会を築き上げたことであり、これは世界的に日本を評価する人たちが口にするある種ステレオタイプ的な言説とも言える。
今回も、総主教のお言葉が伝統についてであるなら、郊外レストランで外で遊んでいた子供たちと話した際には、子供たちから「日本ではロボットが家の中にいるのか」と尋ねられたりした。
強固な武人意識を有するグルジア・コーカサス人の間では、武士道や侍への憧れも強く、「今でも『サムライ』はいるのか」と真顔で聞かれたことも一度や二度ではないが(サムライという「種族」と受け取られている感もあるが)、これも伝統への評価の一端ではある。