京都府舞鶴市の浦入遺跡群から1998年2月、約5300年前の丸木舟が発掘された。この丸木舟は幅約1メートル、船底の厚さ約7センチであり、その幅から全長は約8メートルと推定される。同時代のものとしては最古、最大級の丸木舟であり、その大きさから外海航海用とみられ、縄文時代から日本人は海との関わりを持っていたことを物語っている。
このように日本人は、太古の時代から海と深く関わってきたが、その割には現在の我々は海からどのような恩恵を受け、また、それを阻害するものは何かなどについて体系立てて深く考えていないように見受けられる。
将来どのような方向で海と関わっていけばよいのかを含め、海と我が国との関わりを考えてみたい。
我が国と海との関わり
浦入遺跡群からの丸木舟の発掘に限らず、大小無数の島によって形成された自然条件から、古代から日本では海上交通が盛んであったと考えられている。
船に関する記述は「古事記」や「日本書紀」にも多く見られ、また、この時代には既に朝鮮半島を迂回して中国に達する航路が開けていたと考えられている。
「魏志倭人伝」の倭人の朝貢の記述や、663年の百済・日本軍と唐・新羅軍の間で戦われた「白村江の戦」が示すように、現在の我々が想像する以上に朝鮮半島との交流が盛んであったと想像される。
さらに、聖徳太子は推古17年(607)、小野妹子を随に遣わして隋と正式に国交を開き、唐に対しては630年から894年までの間に18回の遣唐使を派遣し、大陸との交流を活発化させた。
古代における海との関わりを総括すれば、陸と陸を隔てていた障害物の海が、船の出現により海上を利用した相互の交流を可能にし、人や文化が行き交うようになった。日本はこの時代、海を通じて中国大陸および朝鮮半島から漢字、仏教、建築技術、律令制度等々の多くの文化や制度を受け入れ、日本の政治、文化の礎をつくった。
中世における関わり
遣唐使の廃止後、平安末期に平清盛が宋貿易掌握の野望に駆られるが、源氏の挙兵により挫折させられ、その後いったんは大陸との交流は途絶えた。その後の鎌倉時代を通して、国家レベルでの大陸との交流は行われなかったが、民間レベルでの対宋貿易が活発に行われた。
また、倭寇による中国や朝鮮半島の沿岸を襲う活動が発生した。一方、文永11年(1274)及び弘安4年(1281)の2度にわたりモンゴル(元)・高麗軍が襲来し、西国防衛のため鎮西探題が九州に設けられた。
室町時代に入ると、足利義満が1401年に開始した勘合貿易は一時断絶された時機があったが1547年まで19回にわたって実施され、民間で盛んに行われていた対明貿易の利益を幕府が独占しようとした。