しかし、15年勤務した外務省を辞めたあと、行政官であることを辞めたはずなのに、いつまでたっても自分が専門家というより行政官としての思考しか出来ないことに気付いた。やはり、自分の本質は軍人であり、官僚なのであって学者にはなり得ないのである。これは明らかに自分の能力の限界なのであろう。
何が起こっても、何を聞かれても、「国家としてはどうなければならないのか」という発想しか出てこないのである。これでは専門家としては欠陥商品であり、後継を育成することは所詮、無理である。今の最大の悩みが後継者が出来ないことであるが、その理由は自分のあり方に存在する。最近、諦めの境地である。
それでも人生における究極目標は「専門家としての道を究めたい」という一点に集約される。人間の欲心というのは始末が悪い。この場合、専門家というのは言うまでもなく、安全保障の専門家として、である。道を究めたいとは安全保障の観点からこの世で起こる森羅万象を分析評価でき、展望できるということを意味する。到底、今の自分はその到達目標の半分にも達していない。
人生の最後に、もう少しの間、自分の時間が欲しい。そう思って、昨年(2008年)、大学の総長に辞表を提出した。今春(2009年)に定年になることになっていたが、その前に退職したいという意思表示をしたのである。その際、たまたま依頼された東洋大学と純心女子大の講義だけは少しの間、やろうと思ったのである。
「自分とは何者か」
ところがこの春になってみると、大学側は海外事情研究所長を降りてもらっては困る、ついては教員の任期を延長する、という決定をしたため、結局、3つの大学で講義を持つようになった。明らかに判断の誤りである。講演も年間150回を超える。毎月参加する研究会も10を超える。与党・政府・企業・研究所の仕事も国際会議も増える。原稿依頼やメディアに出る回数も増え、時間と体力ぎりぎりの生活が続いている。
これでは本来、専門家としての道を究めることなどできそうにはないが、常に新しい情報に接して、新しい発想を持ち続ければ専門家としての視点がゆっくりとできるのではないかと思って過ごしている。幸運にも、それが出来るのは、外務省や防衛省の諸兄に助けてもらっているからである。多くの友人が支援してくれるからである。学生が協力してくれるからである。
自分ひとりの能力など僅かである。ましてや、自分は国家のためなどと言って他人を平気で切り下ろす性格を持っているので他人から嫌われること甚だしい。中傷・誹謗は専門家にはつき物であるが、自分の場合は少し、ひどすぎる。でもこの性格は変えられない。
最近、自分とは何者であるのかと思うことがある。多分、墓に入った後で、みんなからあいつは結構、いい加減な奴だったなあと、思われるような存在なのであろう。自分の期待はその際、単なる「あいつ」ではなく、「あいつはいい加減な専門家だったなあ」と言われたいと思う。人生の目標を追うことはきついが、まだ続いている。