2002年3月、東海地方では愛・地球博(愛知万博)を3年後に控えていた。その中で経済界などの有志が「飛行船を購入して万博を盛り上げよう」と考え、日本飛行船を設立した。実は、ヒンデンブルク号の悲劇以来、飛行船史上から姿を消したドイツのツェッペリン社が60年ぶりに飛行船開発を再開、2001年に遊覧飛行を復活させていたのだ。(撮影=前田せいめい)(前回から読む)
日本飛行船はやる気満々でも、所詮は実務知らずの「素人集団」。人を介して、大西洋上を航海中の渡邊裕之氏(現日本飛行船社長)に協力を求めてきた。2002年12月、同氏は日本飛行船の社長に就任した。
ところが、この会社の台所は火の車。商船三井時代の先輩で兄のように慕っていた杤木汽船の杤木一郎氏(現日本飛行船会長、杤木汽船副社長)が出資してくれ、辛くも危機を乗り切った。
海運老舗の杤木汽船も当時、メインバンクから資金繰りを監視されるような状況。だが、杤木氏は「余っているからカネを出すというのは、真の協力ではない。君がつらくて困っている時だからこそ、出資してやるよ」と渡邊氏の肩をたたいた。
2003年9月、渡邊氏は海運最大手の日本郵船から出資と経営参加を取り付け、翌年に念願のツェッペリンNTを購入。愛知万博の「空飛ぶ広告塔」として欧州13カ国を飛行した後、2005年に海路で神戸港に到着した。
「3年で黒字化」実現できず、日本郵船撤退で存亡の危機
トヨタ自動車などが飛行船を宣伝媒体に使ってくれ、広告収入が入り始めた。だが、客を乗せて遊覧飛行を行うには国土交通省の許可が必要。その申請準備を進めている間に、「デッドライン」を迎えてしまった。日本郵船は出資の際に「3年後に黒字化できなければ撤退する」と日本飛行船に通告していたのだ。
黒字化を果たせぬ渡邊氏に対し、日本郵船は「時間切れ」をルール通り宣告してきた。またもや存亡の危機に直面した。「走り回っても走り回っても、日本郵船に代わる引受先が見つからない。今度こそダメか・・・」
再び、杤木氏が救いの手を差し延べた。「このままでは飛行船がスクラップになってしまう。夢と安らぎを与えてくれ、記憶に残る乗り物の事業は潰してはならない」――。2007年4月、日本郵船の出資分などを杤木汽船が引き受けて親会社となり、日本飛行船は辛うじて存続を許された。
2007年5月、ようやく日本飛行船は国交省から航空運送事業の許可を取得。初回分チケットが即座に完売する人気を呼ぶ中、11月に首都圏で遊覧飛行を始めた。
今までに2000人以上が「空中散歩」を満喫した。乗客にはお年寄りが目立ち、中には90歳を超えている人も。また、1人で通算5回も搭乗した女性マニアもいるという。
都心で降りられない飛行船、巨体を駐機する場所が・・・
しかし、事業の前途には課題が山積する。欧米と違って日本では飛行船文化が根付いておらず、日本飛行船は全て自力でインフラを整えなくてはならない。