今から十数年前、PKO(国際連合平和維持活動)の部隊がカンボジアから撤収した直後、日本のODA(政府開発援助)によって道路や橋がつくられ、カンボジアは「復興」というバブルに沸いていた。当時、私はあるNGO(非政府組織)団体の現地所長としてカンボジアに赴任することになった。

15年前小生が借りていた家。当時、4階建ての建物は皆無で、近隣では一番高いランドマークだったが、今は周りの建物のほとんどが4階建て以上となった。

 その頃のカンボジアは、いわば「何でもあり」の国で、インターポールの指名手配犯が数百人以上潜伏し、不正に稼いだ金や偽札のマネーロンダリングが行われ、日が暮れると警察が市内の至る所に関所を作って通行人からカネをせびり、中心部から外れたロシアンマーケットに行けば、トカレフ、AK47といった銃器、地雷に手榴弾が店先に並べられて売られていた。

 現地で働く商社や建設会社、JAICA(国際協力機構)などの日本人の男たちはこぞって現地妻をかかえ、もし、そうでなければ裏でゲイと揶揄され、もしくは男子機能不全と笑われた。

 私は、学生の頃から放浪癖があり、人生が行き詰まると逃亡を繰り返していたが、20代後半の頃、焦燥に駆られ日本を飛び出そうとした時、ある人にNGO団体のカンボジア現地所長という仕事を斡旋された。

 その紹介者は「キミ、現地に到着したら、この女性に連絡しなさい。いろいろと世話を焼いてくれるように頼んでおいたから」と、連絡先のメモを渡されたので現地に到着すると、早速、その女性を訪ねた。

言われるままにカネを貸し続けた私

 彼女が働くオフィスは、タイ資本でつくられたカンボジアで最も豪華な国際ホテルの中にあった。そこはプノンペンの街全体を覆う埃っぽさと喧噪、熱帯モンスーンの湿った空気を完全にシャットアウトし、冷房の効いた建物のエントランスには豪華な大理石が敷き詰められ、精緻なペルシャ絨毯が敷かれていた。

 彼女は白い革張りのソファに腰をかけていたが、私を見つけると大きな笑みをこぼすようにして立ち上がった。二重まぶたの瑞々しい大きな瞳が印象的だ。しっとりと熟した肉感的な身体を包むベージュの薄手のスーツからは情緒的な気品が漂い、知的女性特有の気高い艶やかさに私は目をみはっていた。