数カ月前、新聞にこんな内容の投書が載っていた。

 その送り主は65歳の女性で、半年前に同じ歳の夫を亡くした。心臓発作による急死だったため、悲しみにくれながら遺品を整理していると1冊の見慣れない手帳が出てきた。気になって読み出した手帳の中身は、50歳頃から亡くなる寸前までの、ある女性との交際についての覚え書きだった。予想もしてみなかった内容に、妻である彼女は大きなショックを受けた。

 亡くなった男性はユーモアに富んだ人物で、妻は自分には過ぎた夫と感謝しながら暮らしてきた。それなのに、裏では長年にわたる不倫を働いていたと知り、これまでの人生の全てが否定された思いで悲しくて仕方がない。

 寡婦となった女性には大変申し訳ないが、一読後の私の感想は、それは嘆いても仕方がないだろう、だった。裏切りの事実があったにせよ、30年以上も仲の良い夫婦でいられたことを貴重に思う方がいい。

 妻に毛ほどの疑いも持たせなかった手際からして、男性は周到な人だったのだろう。もしも癌であったなら、間違いなく手帳を処分してから亡くなっていたはずで、それが残ってしまった不運には同情するけれど、だからといって夫と送った歳月を否定するような考え方はしない方がいいのではないか。

 こう書くと、おまえも同じようにやましいことをしているからだと勘繰られそうだが、今のところ私はそのような「幸運」に恵まれていない。また、仮に私の妻が先に亡くなり、危険な匂いのする遺品が発見された場合には、知らぬ存ぜぬで処分してしまいたいとさえ思っている。

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 小説家としては誠に情けない態度だけれど、私は他人の秘密とか隠された動機といったものに、ほとんど興味がないのである。ただし、それは私の秘密も封印してほしいということではない。これはいつ頃芽生えた感情なのか分からないのだが、作家である以上、少なくとも死後においては、手紙や日記の類もほじくり出されることを覚悟すべきではないかと私は考えている。

 おまえ程度の物書きが死後にまで関心を持たれるはずがないだろう、という嘲(あざけ)りが聞こえる気もするが、あくまで覚悟として、聞き流していただきたい。ちなみに「作家」には、画家や音楽家や映像作家、それに学者や政治家といった「表現者」全般が含まれるというのが私の意見である。

 実際、死後に公開された日記や私信によって、その作家への見方が変更を余儀なくされた例はいくつもあって、代表的なものとしては坪内逍遥(1859~1935)の日記がある。

 『当世書生気質』『小説神髄』を著わし、明治初頭に小説家の先駆けとして活躍した逍遥は、遊女をしていた鵜飼センと結婚したことでも知られていた。3年越しの恋を実らせた2人は、終生おしどり夫婦と呼ばれ、逍遥に対するセンの献身については多くの文士が称賛の言葉を残している。

 ところが、遺された逍遥の日記から、妻への不平不満を述べた記述が見つかり、事態は一変した。しかも妻には判読できないように、その部分だけ英語で書かれていた上に、遊女であるがゆえの無教養を嘆くものがほとんどとあって、校訂に当たった研究者たちを驚かせた。

 しかし、その一事を以て逍遥を偽善者と決めつけても意味はないと私は思う。妻に向かって暴力を振るったり、罵りの言葉を浴びせていたのであれば別だが、日記に苦情を綴る程度のことで日々の鬱憤が晴らされていたのであれば、むしろその手際を褒めたい気さえする。

 そしてその上で作家・坪内逍遥に対しては、そうした妻への感情の全てを投げ込んだ小説に取り組まなかったことを責めなくてはならない。