欧州通常戦力(CFE)条約が締結(1992年11月発効)されて以降、数次にわたる交渉を経て欧州は一応の安定を勝ち得ることとなり、ソ連邦の崩壊と冷戦構造が消滅していく中、北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)は2004年にエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国を新加盟国として迎え、現在28カ国で構成されている。

NATOの拡大とロシアの「2020年までの国家安全保障戦略」

拡大を続ける北大西洋条約機構(NATO)

 前々稿で紹介した様にNATO加盟国は2004年4月に26カ国であったが、2009年4月にアルバニア、クロアチアが加盟して28カ国となった。

 他方、冷戦構造の担い手であったソ連はロシアとして生まれ変わり、国家防衛と安全保障を考慮してNATOの東方拡大を強く警戒するとともに、NATOに対して様々な牽制を加えたのであった。

 こうした情勢推移の中、2003年のグルジア「バラ革命」、2004年のウクライナ「オレンジ革命」、2005年のキルギス「チューリップ革命」が連続して発生し、バラ革命では大規模な市民デモ集会がシェワルナゼ大統領を退陣に追い込んだ。

 オレンジ革命では改革派の野党勢力が大統領選で不正があったとして大規模デモを展開し、再選挙でビクトル・ユーシェンコ野党候補が当選した。チューリップ革命では議会選で不正行為があったとして野党側が抗議行動を起こし、アカエフ政権が崩壊した。

 こうした行動の背景には、各国の安全保障観が反映していたことは言うまでもない。

 そしてロシアは、旧東欧諸国やバルト諸国を含むNATOの拡大がかつては万全であったロシアの国家防衛のための緩衝地域を徐々に制約していくことに危機感を抱くとともに、少なくともNATO加盟を希望していたウクライナおよびグルジアの加盟を阻止することが、ウラジーミル・プーチン政権の最大の課題となったのである。

 ロシアの大統領がプーチンからドミトリー・メドベージェフに交代した直後の2008年8月8日、まさに北京オリンピックの開幕日、ロシアは旧ソ連の親欧米国グルジアに侵攻した。

 米国はグルジアが先に進攻した南オセチアはグルジア領であることを重視してロシアに自制を呼びかけたが、ロシアに対する説得は功を奏さず、南オセチアとアブハジアの独立という結末を迎えることとなった。

 このように旧ソ連構成国を舞台とした戦闘は、ウクライナおよびグルジアのNATO加盟問題を軸として、ロシアとNATOが相互の影響圏を争う構図ともなっていた。

 しかし、結局のところ国際世論はロシアに妥協し、「事実上のグルジア分割」が確定、ウクライナは希望を果たせないまま政治的にはロシアに接近している。