社会は自然に拡大し、縮小していく。多くは功利性の原理に基づき、有益ならば拡大し、そうでない場合には縮小していくのだ。

 社会はよく、つながりのある1つのネットワークシステムに例えられる。それに習うなら、社会というネットワークは自然に接続と切断を繰り返すことで維持されている。必要なものは接続されるのだが、反対に負担となる部分は切断されていくのだ。

 そうやって、接続の外部に追いやられてしまった人たちがいる。接続の切れてしまった人たち。それが「限界集落」と呼ばれる地域に住む人たちだ。

 限界集落とは、高齢化の進展によって共同体の維持が限界に達している状態を言う。今、功利性の原理に反して、そんな人たちを社会に再接続する作業が求められている。その理由は他でもない。切られた部分が物ではなく、人間だからだ。

都会に出現している「限界団地」とは

 以前、日本経済新聞(2009年2月18日付)に、「限界団地」という小さな特集記事が掲載されていた。

 記事によれば、都会の団地なんかで独り暮らしの高齢者が増え、知らない間に亡くなっているというケースが目立ってきているという。こうした状況を、ほとんど住人がいなくなってしまった過疎地の限界集落になぞらえて、限界団地と称しているわけだ。

 この言葉は私たちに少なからぬショックを与えるものだ。これまで限界集落の問題は、地方の過疎地に特有のものであり、都会には無縁のものと考えられていた。ところがそれは単なる地理上の問題ではなく、もっと根深い精神的、あるいは形而上学的な問題であることを示唆している。つまり、山村の衰退、地方の衰退が問題なのではなく、そこに生じている人間関係の切断こそに問題があったのである。それは限界団地だけでなく、限界家庭、果ては限界国家まで出現しうることを意味している。

 人間関係の切断というのは、言葉を換えると「つながりの切断」である。限界集落で見捨てられた村人たち、限界団地で見捨てられたお年寄り、家庭で見捨てられた若い人たち、国家に見捨てられた生活保護も受けられないような人たち。彼らは皆、つながりを切断されてしまった人たちだ。

 そんな人たちを救うためには、もう一度つながりを再接続する必要がある。新聞の限界団地の記事でも紹介されていたが、見守り活動を行ったり、情報誌を手渡しして安否確認したりというように、一足早く再接続を開始した自治体もあるようだ。