スパルタと戦うアテナイは、紀元前416年の夏に中立国であったメロス島を侵略し、メロス人に、降伏してアテナイに貢物を支払うか、滅亡するかを要求した。
メロス人たちは、アテナイとスパルタという二大国の間で中立を維持することを望んだが、アテナイの使節は、「正義は力の等しい者の間でこそ裁きができるのであって、強者は自らの力を行使し、弱者はそれに譲る、それが人の世の習いというものだ」(『歴史2』トゥキュディデス 城江良和訳、京都大学出版会 西洋古典叢書より)と言い放ち、メロスの中立という希望を打ち砕くことになる。
メロスがアテナイの要求を拒否すると、アテナイはメロスを包囲する。結局、メロスは降伏し、アテナイによってメロスの成年男子全員が死刑とされ、婦女子は奴隷とされたのである。
ギリシア古典の世界とは異なるリアルな現代の国際政治の世界では、トゥキュディデスが描く、アテナイの使節の言辞のような(その内容がいかに脅迫的であったとしても)品格のあるディスコース(コミュニケーションや議論)を期待することはおそらくできないかもしれないが、幸いなことに、少なくともウクライナはメロスではなく、2400年の時の差は、大いなる変化を国際社会に生きる私たちにもたらしている。
例えば、現代では、情報が瞬時に世界に流れ、あっという間に世界の世論の形成が行われ、それがゆえに現代の大国のいかなる振る舞いも大いに制約される。同時に、法の支配や国際法に体現されるような道義が求められる現代では、少なくともあからさまにそれに背くようなレトリックの使用は何人も控えざるをえない。
さらに、ウクライナが構築した広範な国際的な連帯や欧州との強固な関係は、孤立したメロスの比ではない。とりわけ今回、ウクライナに連帯を表明する英仏を中心とする欧州が有志国連合を結成せんとの強い意思を表明したことは、ウクライナにとって極めて大きい支えとなろう。
今こそ、長く暗いトンネルの向こうに輝く光をみつけるために、「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」という、あの含蓄のある言葉を、私たち日本人は繰り返し噛みしめてみる必要がある(参考:「岸田総理による外交専門誌『外交』への寄稿文」首相官邸)。