「国家安全保障基本法」の早期制定を訴える樋口譲次氏の論考は、本拙文の筆者の心中に永らく潜んでいた問題意識を再燃させた。たまたま今回の東日本大震災で実感した天災もさることながら、外敵の本格侵攻及び大規模テロの方が一層危険な事態を招くので、法制の整備はじめ有形、無形の準備が絶対に必要である。

 いみじくも、1978年7月における栗栖弘臣元統幕議長の「超法規発言」が、政府による有事法制検討の契機を成している。当時、憲法改正が前途遼遠の国情では、軍備と交戦権の行使を禁ずる第9条の効力を停止する法的処置を構ずるとともに、「安全保障法」「国防法」などを制定する案が浮上したのである。

 有事法制の検討開始から25年後に実現した「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」(国民保護法)の実体は、各国の民間防衛法規(民防)に近い。これに対し、樋口氏は、民防も念頭に置いた国防の基本法規の制定を目指している。

 ところで、防衛庁創設当初における旧軍出身の陸上自衛隊幹部は、「国防」という明治建軍以来の用語を多用したが、戦後の用語「安全保障」には違和感を抱いていた。

 しかしながら、旧軍出身幹部でも、前大戦の深刻な教訓から、軍事力のほか、政治、外交、経済、社会、技術等の諸要素の総合発揮により成り立つ現代の国防の本質を十分に認識していた。

 顧みるに、昭和初期の日本の政治、軍事の指導者も、安全保障という用語こそ知らないが、欧州諸国が国力を傾注して戦った第1次大戦の様相から、「将来戦は、長期にわたる『総力戦』になる」と再三にわたり強調している。

 ちなみに、「総力戦」は、大戦末期におけるドイツのルーデンドルフ参謀次長の回想録、“Totaler Krieg”の和訳である。

 第1次、第2次両大戦を見るに、交戦国が国家の総力を挙げる能力、すなわち大戦略(後述)の優劣が勝敗を左右した。

 1957年当時、「国防の基本方針」の起案に関係した旧軍出身幹部は、その文面から見て、安全保障と同じ広い視点から国防を認識していたと理解することができる。一方、政治、行政(防衛庁を含む)の分野では、「防衛」という用語が多用されてきた。

 ちなみに、2007年1月に防衛庁の防衛省への改称当時、有力な案であった「国防省」は、「近隣諸国を刺激する『国防』という表現を避けよ」という政治の意見から不採用になったと言われている。

国家安全保障及び国防の体系的な考え方:やはり米国が模範

 歴史学者によれば、国防目的の達成上、軍事のほか、政治、経済等、国家の全機能を動員する安全保障は近代国家成立の頃に始まるが、20世紀にその定義が明確になった。

 第1次大戦初期に米国議会の決定に基づき、“National Security League”という欧州派兵を促す政治団体が結成された。この組織名の中に、国家安全保障(national security)という表現が初めて公式に登場している。
(注:Russel F.Weigley, HISTORY OF THE UNITED STATES ARMY (Bloomington:Indiana University Press,1984), p.342,345,350)

 第2次大戦後の1947年に米国では、軍事力の行使を含む外交政策の基本を成す国家安全保障法(National Security Act)が制定されている。

 一方、連合軍占領下の戦後の日本では、外務省が国連の諸機能“security council”などの“security”を安全保障と和訳した。もとより当時は、旧軍は解体し、軍備を禁ずる憲法も制定された防衛力ゼロの日本であった。以下は、米国の国家安全保障などに関する最近の定義である。