企業が継続して利益を生み出すためには、その源泉である価値を創造することが絶対的に重要である。価値を創造しなければ奪い合いの構造になり、奪い合いの構造はいずれ破綻するからである。

価値は主観的であり測定が困難

 しかしその価値は、利益と異なり主観的で測定が困難であり、その価値を生み出す人の心は、さらに主観的で測定はほとんど不可能である。ここにビジネスにおける心と数字の問題の難しさがある。

 利益の源泉である価値は、誰がいつどこでどのように享受するかによって変動する。それゆえに、客観的に測定できない。

 例えば、同じ料理であっても、食べる人がどんな状況にあるのか、お腹が減っているのか、それほど減っていないのか、仲間と楽しく食べるのか、接待で気を使いながら食べるのか、良いことがあって晴れやかな気分で食べるのか、嫌なことがあって沈鬱な気分で食べるのかによって、全くその価値は変わってくる。これは食事だけでなく、すべての商品やサービスについて言えることだろう。

 価値が主観的であるがゆえに、商品やサービスの値決め、つまり価格をいくらにするかは大変重要で難しい問題である。

 商品やサービスの提供者がつけた価格が、その商品やサービスの購入者が享受できると考える価値よりも同じか安いと考えれば、その商品を購入する。逆にその価値よりも高い価格がついていれば、その商品やサービスは購入しない。

 売り手と買い手に情報が十分にあり価格弾力性が十分にあれば、需要と供給が一致する点に価格が修正されるというのが経済学の基本的な考え方である。しかし現実には、情報も価格弾力性も十分ではなく、価格と価値の乖離が収束されるまでの時間は無視できないほど長く、その乖離が様々な問題を引き起こす。この点については後に触れる。

 そもそもなぜ価値は主観的なのか。それは、価値とは突き詰めれば人の幸せであるからだ。

 人が商品やサービスを消費するのは、それによって楽しみや喜びを味わったり、不安や苦痛が和らいだりするからにほかならない。すべての人は幸せになるために生きているのであり、幸せになるためにお金を使う。

 従って、お金がどれだけあっても、幸せを感じる心を持ち合わせていなければ意味がない。それなのに心を疲弊させてでもお金を稼ごうとする人が多いのは皮肉である。

経済危機の根底にあるのは「価値」の本質的な変化

 ここで価値についてもう少し突っ込んで考えてみたい。

   かつての価値の源泉は、今よりもシンプルであった。それは例えば、作業の代替や情報の非対称性などに求めることができた。しかし言うまでもなく、これらはグローバル化やインターネットの普及によって、価値の源泉とはなりにくくなってきている。単純な作業の代替は人件費の安い国にシフトしており、企業と個人の情報格差も急速に縮まっている。

 もはや顧客の面倒な作業を代替するだけのビジネスや、企業が圧倒的に情報優位であり個人は圧倒的に情報劣位であることを前提にしたビジネスは、十分な価値を創造しているとは言えず、価値の対価である利益を得ることも難しくなっている。

 また、これもよく言われることであるが、日本のような先進国におけるモノの飽和も価値の源泉の変化を促している。つまり、単に便利で機能的なモノを作っても、それだけでは価値として認められにくくなってきているのである。

 現在でも多くの企業が、製品の利便性や機能性を競い合っている。しかしこれだけモノがあふれている現代において、利便性や機能性はもはや顧客から見て大した価値とは映らなくなっているのだ。

 かつての優良企業が軒並み業績不振に喘いでいるのは、金融危機や大不況のみが原因ではない。むしろ金融危機や大不況によって、顧客が求める本当の価値、すなわち人の幸せを生み出せなくなっているという事実が浮き彫りになったのである。