「誰かを罰する」ことで感じる快感

──「規範意識が高いところほどいじめが起きやすい」「決めごとの多い夫婦ほど離婚しやすい」と書かれています。何か事件があると、「より細かな法整備が必要だ」「より厳しい厳罰化が必要だ」といった議論が盛んに行われます。学校や家庭などでも問題のある子供は厳しいルールで囲い込んで間違った行動から遠ざけようとしがちですが、ルールをたくさん作るほど、人と人がぶつかる摩擦点が増えてかえって危険ということでしょうか。

中野:そういう側面もあります。たとえば、誹謗中傷に関する問題などは、抑止力としてある程度の厳罰化は必要だと思います。しかし、規範意識が高くなっていくと、規範を破った人に対して厳しい視線を向けることが、あたかも正義であるかのように社会が変質していきます。

 逆説的に、問題がある人を国や法律が完全に罰してくれるという安心感があれば、自分たちが私刑を加える必要はなくなりますから、こうしたリスクは回避しやすくなるでしょう。

 けれども、大衆がその処罰では不十分だと不満を持つような、少額の罰金や譴責(けんせき)処分のような形で終わってしまう場合、「誰も彼らを罰することができないならば自分で罰しなければならない」という圧力が自発的に生じて、ターゲットに対する攻撃はより激化しがちになるという構図です。

 もちろん、人々の怒りが正当な場合もあります。けれども、誤解によって相手が過剰に責められる場合もある。しかし、ひとたび人々の間で罰する機運が高まってしまった後では、止めようとする声は聞き入れられません。なぜなら、人々は罰する快感によって思考停止してしまうからです。そして、正義を執行する快感を取り上げられることに抵抗するのです。これはとても恐ろしいことです。

 人間というものは、何もない状態で自分を正しいと認識することができません。しかし、誰か責めるべき相手がいると、その相手と比較して自分は正しいという認知に至ることができる。そのため、誰か一人でも自分が責めることができる相手を設定しておくことが、自分が快感を得ることができるスイッチになる。

 この場合、責めるべき対象が謝罪をしたり悪行をやめたりすると、次の標的を求めるようになる。そのようにして、次々と標的を探し続けるのです。

 だからこそ、「こういうことをしてはいけない」という禁止の社会通念を強めることに私は抵抗を感じるのです。