大ヒットとなったアサヒビールの「スーパードライ」(写真:ロイター/アフロ)

(*)本稿は『日本のビールは世界一うまい!酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

◎第1回「Z世代が知らない昭和のビール大戦争、シェア6割のキリンはなぜ陥落したか
◎第2回「スーパードライのヒット前夜、窮地のアサヒを救ったタイガース優勝の奇跡

 自身の言葉によれば、「幕引き役」として旧住銀からアサヒにやって来た樋口廣太郎。86年の年明けに顧問で入り、「マルエフ」がリニューアル発売された1カ月後に、樋口は村井に代わって社長に就く。だが、当初からアサヒ再建に並々ならぬ闘志を抱いていたのも事実だった。

 アサヒに赴任したばかりのとき、関西にある工場を樋口はお忍びで訪ねたことがある。抜き打ちで偵察した、という表現の方が正しいのかも知れない。

 そのときのことだった。午後5時を前にした就業中だというのに、従業員が二人、正門から出てくると、道路の反対側に座り缶ビールを飲み始める。しかも、そのビールはキリンではないか。飲み終えると、一人が「アサヒビールのバカヤロー!」と叫び、缶を工場の敷地に投げ込んだ。

「大変な会社に来てしまった……」。この時には、少なからぬ衝撃を樋口は覚えた。それでも、ボロボロになっていたアサヒの再建に、正面から取り組んでいく。

 社長就任早々、2カ月間で全国の問屋を訪問する一方、夜になると都内の酒販店や飲食店を毎晩20軒ほど回って歩いた。

「このたび、アサヒビールの社長になりました樋口廣太郎でございます」

 京都の商家に生まれ育った樋口は、小さな体軀が真っ二つに折れるほど深々と頭を下げる。支店の営業マンさえ顔を見せたことのないキリンと違い、アサヒは経営トップがやって来た。来訪を受けた酒販店の店主は腰が抜けるほど驚き、アサヒのファンになった。

 ただし、社内では頻繁に“雷”を落とした。

 ある工場を訪問したときのこと。工場内を見て回った最後に、説明役で同行していた工場長に、「何か、この工場で問題はあるか」と質問した。工場長は笑顔で「はい社長、何も問題はありません」と答えた。

 すると樋口は、それまでの柔和な表情を一変させ、ドスの利いた声で次のように言った。

「君、すぐに辞表を書きなさい。問題を把握できていない人間が、工場のトップにいることが問題だ。明日、会社を辞めろ」