メッケル少佐

(歴史家:乃至政彦)

来日軍人メッケル

 日本陸軍の創成を支えた外国人に、ドイツ軍参謀少佐のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルがいる。メッケルは明治時代の軍人だ。

 明治18年(1885)3月、メッケルは日本の高等武官養成のため来日し、陸軍大学校に着任した。そこで師団制の整備などに尽力して、軍制の近代化に寄与したあと、明治21年(1888)3月にドイツへと帰国した。

 メッケルには優れた戦術家としての名言や逸話が伝わっている。

 今回は、メッケルに関する逸話のうち、日本史のある有名な合戦に関するものを書かせてもらう。言わずと知れた関ヶ原合戦である。

 メッケルは、関ヶ原の陣容をひと目みて、即座に「西軍の勝ちだ」といったとされている。

 この逸話は二木謙一氏の『関ヶ原』(中公新書・1982)で、次のように紹介されている。

「ドイツのクレメンス=メッケル少佐は、関ヶ原合戦における陣形をみて、即座に「西軍の勝ち」といったと伝えられている。それは西軍の布陣が、小高い山々を利して、敵を誘い込んでこれを包囲攻撃しうる態勢にあったからである。中国の兵書にいう典型的な「鶴翼」、すなわち鶴が翼をひろげて敵をおし包む陣形であったのである。」

 ただしこの逸話には、たくさんの疑問点がある。ここでは特にそのうち3点を取り上げよう。

「西軍の勝ち」への疑問点

 まず第一に、出典が不明である。

 次に第二として「陣形をみて」とあるが、メッケル在日時代の日本にはまだ現代的な関ヶ原の布陣図がなかった。現在よく知られている布陣図は明治25年(1892)の神谷道一『関原合戦図志』がベースで、明治25年(1892)に公開されたものである。有名な参謀本部の関ヶ原合戦図は、これを参考にその翌年に公開された。

 ところがメッケル少佐は明治18年に来日して、3年後の21年にドイツへ帰国した。つまり、例の布陣図は、メッケルがドイツに帰国してから4〜5年も経ってから作られたものなのである。

 一応、その頃まで江戸時代に作られた絵図があるのだが、西軍と東軍の配置は今と異なるところが多く、石田三成が笹尾山に布陣していたとする絵図は確認されていない。

 余談を加えると、「鶴翼」という陣形への言及があるが、関ヶ原の布陣図における西軍はまったく「鶴翼」の陣形になっていないことも要注意である。中近世の「鶴翼」の形状認識が現代の認識(V字型)と異なることは拙著『戦国の陣形』に書いているので、興味のある方はご覧願いたい。

 そして第三として、メッケルが布陣図だけを見てその勝敗を言い切ったように描写されているところだ。実際はこのようなことを考えにくい。なぜならメッケルは、戦史は戦地図や文献だけで論ずるのではなく現地踏査することが重要だとして「参謀旅行」なる新概念を日本軍に伝授した人物である。なのに、それが現地に赴かず、「布陣図」のみに拠って、「西軍の勝ち」と即言するなどあり得るだろうか。

 もしこのように論理的一貫性のない軍人を招聘したなら、当時の日本人はかなり人を見る目がないことになってしまう。そんな間抜けな国民だったら、江戸幕府を終わらせて短期間のうちに先進国の仲間入りを実現できるわけがないだろう。

 メッケルという人物を見誤ることは、当時の日本人そのものを軽視することでもある。