四万十市にある一条房基の供養墓

(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)

一条房基とは?

 今年(2022)、生誕500年を迎えた一条房基(1522~1549)とは、土佐一条家の三代目当主で、ゲーム、漫画、小説などで有名な一条兼定の実父である。

 彼(房基)は大永2年(1522)に房冬の嫡男として誕生し、生母は伏見宮家の王女・玉姫宮(真照院、玉姫という名は後世につけられた尊称)。わずか28歳で薨去(狂気のための自害と伝わる。『公卿補任』)したため、その事績がほとんど知られていない。こう言っては不適当かもしれないが、土佐一条家の家督(当主)の中で、一番影の薄い存在かも知れない。

 房基は、豊後国(現在の大分県、ただし、一部を除く)大友家に協力する形で、南伊予(現在の愛媛県南部)に軍勢を差し向けたり、長年の間、対立関係にあった土佐国高岡郡(現在の高知県須崎市ほか)の有力在地領主・津野家を攻めて臣従させるなどしたため、武断的性格のみが強調されて語られてきた。

 しかし、房基は、和歌や有職故実などの文芸方面にも熱心であり、決して猪突猛進タイプで軍事方面のみに力を注いだ人物ではなかったのである。

 今年(2022)、生誕500年を迎えた一条房基の知られざる実像を、信用できると思われる諸史料に基づいて掘り起こしてみたいと思う。

房基の文芸活動

 房基といえば、軍事的動向がクローズアップされがちであるが、決して文芸方面にに無関心であったわけではない。むしろ逆で文芸活動には非常に熱心な公家だったのである。

 たとえば、房基は叔父で摂関一条家の当主になっていた房通に頼み込んで、一条家が秘蔵する有職故実書(ゆうそくこじつしょ。朝廷や公家の装束や作法礼式・官職・法令・年中行事などの先例を記した書物や学問書のこと)である『桃華蘂葉』(とうかずいよう。一条兼良著)の写本を送ってもらうよう手配した。

 この『桃華蘂葉』は単に有職故実に関してのみならず、一条家に代々伝わってきた全国各地の領地(家領荘園)なども詳しく記されており、土佐一条家にとって垂涎の書物だったのである。

 さらに、房基は祖父・房家が三条西実隆に書写を願い出て(『実隆公記』享禄四年二月七日条、同五月五日条)、土佐一条家に伝わった『伊勢物語天福本』の奥書に、「従三位藤原房基(花押)」を記しており、熟読、愛蔵していた様子がうかがえる。

 ちなみに、この『伊勢物語天福本』には朱筆で「覚桜」なる人物の注釈文があり、この人物は菊亭(今出川)家の出身で小松谷公範を名乗って土佐国に「在国」していた人物である。

 この覚桜は、房基の孫・内政に古今伝授した人物でもあり(天正五年閏七月大吉日付小松谷寺【覚桜】宛一条内政書状写。東京大学史料編纂所所蔵「一条文書」【架番号3071、68ー4】)、房基も覚桜もしくは、父・房冬に古今伝授した仁和寺真光院尊海(享禄三年五月日付尊海書状写。東京大学史料編纂所所蔵「一条文書」)に、古今伝授と言えないまでも古今和歌集について講義を受けていた可能性は高いと考えられる。

 ちなみに余談になってしまうが、覚桜は後年、房基の孫・一条内政に随身して長宗我部元親の嫡子・弥三郎信親に和歌の教授をおこなっていた形跡がある(年未詳重九後一日付如水斎【蜷川親長】宛覚桜書状。「蜷川文書」)。

 以上、みてきたように房基は、摂関一条家や土佐一条家の家風ともいうべき文芸活動にも熱心に取り組んでいた様子がうかがえるのである。