連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

一休が盲目の美人旅芸人・森女と会遇した住吉大社(ウィキペディアより)

 男性は一皮剥けば誰しも概ね「女好きで助兵衛な生き物」というのは衆知のことである。

 だが、生き物の本能の中でも、とりわけ自制の効きにくい性欲は、女だけが強い抑止力をもっているということでもないらしい。

 女性は産む性を与えられているだけに、情交に対する執着は本来的に男性よりも強いのではないのか。

 女性は、狩猟時代から続く男性中心の社会構造の中で、有形無形の抑圧を受けてきた。

 そうした状況下で女性が性的な自己主張をしたり、そのことに積極的な姿勢を示したりすることは、社会から非難の対象者とされがちなため、そうした欲望は翳を潜めて隠伏しているようにも思える。

 性的な妄想は頭の中で密やかに思い描くものだが、それは自慰行為の空想的な素材だけとは限らず、白昼の町中、仕事の最中、通勤電車の中でも、何かに触発されてそういう妄想が浮かんでくることが、男性にも女性にもあるだろう。

 宗教的観点から性的妄想について考えてみよう。

 古代チベット仏教の教理によれば、その奥義である無上瑜伽タントラとは、端的に言えば神仏と人との融合であり、その発露となるのは男と女の合一。

 悟りと性欲は、強固に掛かり合っているともされている。

 しかしチベット密教の奥義は実際の男女のセックスの実践によるものではなく、あくまでも空想によるものだという。

 ならば、チベット密教が説く高潔な悟りの世界と、我々凡夫の自慰行為の際、その素材となる性的空想、つまりセックスの妄想は、密教の説く悟りの世界と掛かり合っていても良さそうなものなのだ。

 その真実は果たしていかに・・・。