春日山城跡(新潟県) 写真/アフロ

(乃至 政彦:歴史家)

越後の梟雄・長尾為景

 越後守護代・長尾為景は、上杉謙信の父であり、上杉景勝の外祖父である。その為景は“梟雄”として知られる。近年の小説やゲームでもほぼ例外なく、大いなる野心家として描かれている。

 この評価を否定する人はほとんどいない。

 実際問題として、主人格の越後守護と関東管領の2人を殺害し、しかも自ら擁立した新しい守護までも骨抜きにして傀儡化した事績がある。

 もし為景本人が現代の評価を知ったとして、わざわざ反論したりはしないだろう。

為景の下克上 

越佐史談(国立国会図書館蔵)より、上杉謙信と長尾為景

 もう少し詳しく説明すると、越後の長尾一族は、上杉家の老臣として代々奉公してきた。ところが為景は越後守護・上杉房能および、その異母兄である関東管領(兼上野守護)・上杉顕定と争い、2人とも死なせてしまった。越後一国を上杉一族から奪い取ったのである。

 ついで為景は、自ら擁立した新守護・上杉定実(房能の養子)とも対立する。定実は、国内で大規模な反乱が起こった時、為景よりも彼らに勢いがあると見て、為景を裏切ったのだ。しかし為景は即座に定実を拉致監禁することで、反乱軍からその大義を奪い取り、抵抗勢力を確固撃破していった。

 その後、定実は政治の実権を失っていくが、やがてまた大きな反乱が勃発する。今回の反乱軍は、定実と同族の上条定憲を総大将に迎え入れ、これを新しい守護にしようと企てた。定憲は大軍を引き連れて、為景の居城へ差し迫る。為景は居城間近で迎撃に出て、これを散々に打ち破った。決戦の10日後に定憲は死亡して、全ては為景の勝利に終わった。

 そのあと、為景は嫡男の長尾晴景に家督を譲り、引退を宣言。

 これが為景の大まかな足跡だが、その生涯は、ほとんど下克上の闘争に費やされたと言ってよかろう。ただ、為景個人にどういう心積もりがあってこのような事態になったのかは不明な点が多く、いずれも為景からではなく、上杉側から仕掛けられているところからみて、為景にもそれなりの言い分がありそうだ。

 そこで今回は、為景にどこまでの野望があったのか、その有無を量ってみたい。