(町田 明広:歴史学者)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(21)「東京遷都①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67165)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(22)「東京遷都②」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67230)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(23)「東京遷都③」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67335)
三条実美の東京遷都への決意
東京遷都シリーズも今回が最終回となった。最後に東京遷都の実現に至る具体的な道程を中心に見ていこう。慶応4年(1868、9月8日に明治元年に改元)7月17日、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、東京奠都(てんと)が宣言された。しかし、明治天皇の東幸(東京への行幸)はなかなか実現しなかった。
反対の急先鋒である松平春嶽、中山忠能、大原重徳といった守旧派は、その反対理由として幼い天皇が東幸という長旅に耐えられるか心配であること、まだ戊辰戦争が継続しており、いつ、どのような変事が起こるか分からないこと、また財政難のこの段階で、東幸は余りにも費用がかさむことなどを挙げていた。もっともな理由である。
追い打ちをかけるように、8月19日、徳川慶喜や旧幕臣らの静岡移住を見届けた榎本武揚が、旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱走したとの情報が京都にも伝わった。これによって、これまで以上に天皇の東幸に対する慎重論が吹き出し、その期日を確定することは困難を極めたのだ。このような京都の状況が東京に伝わると、ついに堪りかねた輔相の三条実美は、現状の打開を図るため、大久保利通に京都行きを命じた。
当時の三条は、「永世の基礎、神州の根拠は必ずこの地理(東京)しかるべしと存じ候、政府は当地(東京)に御移し、東西賓主(客と主人)の位を転ぜられ候方、御長策と存じ候」(『岩倉公実記』中)と、東幸を最も強く主張している。日本の将来にとっては、京都よりも東京の方を重視すべきだとしており、三条の政治的センスに一目置かざるを得ない。三条には、どうもひ弱な政治家のイメージがつきまとうが、再考の余地があろう。