1974年(昭和49)に開かれた囲碁大会の団体戦に、日本将棋連盟として参加した大山康晴十五世名人(左・当時51)と升田幸三実力制第四代名人(同56)。撮影/田丸 昇

(田丸 昇:棋士)

高みを目指す「同志」から「対抗」に

 大山と升田は、同じ門下の兄弟弟子。師匠宅で内弟子をしていた若い頃は、同じ釜の飯を食い、切磋琢磨したものだ。兄弟子の升田が大山の囲碁を横から見ている姿は、内弟子時代に戻ったような和やかな雰囲気がある。

 大山と升田は戦後の1940年代後半から、頭角を現していった。ともに高みを目指す「同志」の間柄だった。しかし、両者が盤上で激しい勝負を繰り広げていくと、いつしか盤外でも対抗するようになり、いろいろな葛藤が生じた。

 大山が毎日新聞社、升田が朝日新聞社の「嘱託」に就いたことで、後援者や知人の顔ぶれもはっきり分かれた。

 昔は、大新聞社が有力棋士を取り込むために、嘱託として迎えたものだ。ちなみに読売新聞社の嘱託には、主催した九段戦(竜王戦の前々身棋戦)で4連覇した塚田正夫実力制第二代名人(享年63)が就いた。

 大山と升田の関係は、将棋連盟と名人戦主催者の間で起きた契約金問題によって、さらに溝が深まった。

 戦前の1935年に創設された名人戦は、毎日が当初から主催していた。しかし、1949年に将棋連盟との契約金交渉で折り合いがつかず、契約は不成立になってしまった。

 そして同年、連盟の希望額を受け入れた朝日に、名人戦の主催権が移った。噂によると、朝日の嘱託の升田が暗躍したという。

 そうした経緯があったので、大山と升田がタイトル戦で対局したときは、周囲の関係者は神経をピリピリさせた。それは両者の盤外の行いにも及んだ。

控室で升田は「囲碁」、大山は「麻雀」

 病気がちの升田は寒がりだった。ストーブを点けてくれと所望すると、関係者は暑がりの大山に配慮して、一部の窓を開けて風を通した。

 升田は食が細く、蕎麦に生卵をかけるような流動食をとった。

 大山は食欲が旺盛で、天ぷら、ウナギ、ビフテキなどのスタミナ食を好んだ。自分はこれだけ食べられほど元気なんだと、升田に見せつける意図もあったようだ。

 2日制のタイトル戦では、対局者は対局前夜、1日目の夜、控室でくつろいだものだ。その過ごし方はさまざまだった。

 升田は青年時代から好きだった「囲碁」を打った。「モミジのようなかわいい手だな」「あんたの碁は《クイゴ》(杭のように打てば打つほど力が下がる意味)やな」などと、軽口をたたきながら楽しんだ。

 大山は「麻雀」を打った。対局中でも、立会人や記者など自ら4人を指名して控室で打たせ、時たま立ち寄って観戦した。だから麻雀をできない者は大山に疎んじられ、「立会人は麻雀を打てる人にしてほしい」と注文をつけることもあった。

 対局中に頭脳を酷使しているのに、休憩時間に囲碁や麻雀で頭を使うのは、不思議な気がするだろう。しかし、スポーツ選手の柔軟体操みたいなもので、よい気分転換になったようだ。