日本の教育改革は現場の実態に沿っているのだろうか

 新年度です。特に新入学、あるいは新入社などフレッシュマンの皆さんには、心からのエールを送ります。

 ここ数年、大学入試の「現国」問題文に私の文章が出題されることから、東進ハイスクールなど予備校模試からも著作権許諾の封書をもらい、この連載を見ている中学高校生もいることを認識しています。

 そこで今回は「高等学校の新科目」に焦点を当てて、実のあるアドバイスを記そうと思います。

 来年の話をすると鬼が笑うといいますが、2022年度から使われる高等学校の教科書が「探究学習」を重視する内容になるというのです。

 結論として、この変更は、ごく一部の例外的成功と、全般的には形式に流れて内実の希薄な失敗に終わる可能性が、現状のままでは極めて高いという観測を、ここではあえて申しましょう。

 東京大学の一教官として、率直に表明するとともに、児童生徒諸君にはそうした隘路、迷路に踏み込まず、意義ある高校生活を送ってもらいたいと心から思います。

「失敗」を運命づけられた「探究学習」

 なぜ「探究学習」が失敗する公算が高いか。理由は簡単です。

1 それに特化した教員の能力養成などが行われていない

2 同様の指導不在で見切り発信した「ゆとり教育」の前例を見れば一目瞭然

「ゆとり教育」に関しては、非常にローカルに赤裸々に知る現実がありますので、それを記してみましょう。

 ゆとりを導入、推進したのは、先般亡くなった有馬朗人氏と、文科省を超えた切れ味を見せる寺脇研氏のお二人のタッグ、二人三脚と言って大きく外れないでしょう。お二人とも存じ上げない人ではありません。

 というか有馬さんは高校、大学学部学科(理学部物理学科)、大学院から職場までストレートに同じコースの大先輩で、彼がトップを務めた国連世界物理年日本委員会では、ノーベル賞受賞者が中学高校生を指導する破格の教室を実現するなど、30代の私なりにできる限りを尽くした経緯があります。

 相当働いて反応や結果がよかったのでしょう。有馬氏が日立製作所の山荘のようなところに、物理学会会長だった北原氏と私を招いて懐石料理をふるまってくれました。

 その後、同様の企画を知らないところで繰り返し、足腰が弱くて頓挫したようなことも耳にしますがよく知りません。

 また50年ぶりにつないだ母校の理事長に、これまたちゃっかり収まったりしたのも後から知り、有馬氏のタヌキぶりには幾度も舌を巻かされました。

 まあそれはそれとしましょう。当時すでに失敗が指摘されていた「ゆとり」に関して、有馬さんは、以下ややローカルな表現になり恐縮ですが、懐石料理の場で「あれは武蔵のやり方を実現しようとしたんだよ」と表現するわけです。

 そして「指導の仕方なんかは、決めない方がいい。みな自由に、好きなようにやりゃいいんです、うん」と自分で言って、自分で頷いていました。

 率直に言って、いかりや長介の「ダメだこりゃ」を脳裏に想起しました。これがなぜダメなのか、以下では「夏目漱石」を事例としてご説明しましょう。