(歴史学者・倉本 一宏)
吉備氏から分かれた氏族・笠氏
今回は一芸に秀でた人について述べよう。一芸と言っても、何とも不思議な芸である。『続日本後紀』巻十二の承和九年(八四二)十二月戊辰条(八日)は、次のような卒伝を載せている。
伯耆守従四位上笠(かさ)朝臣梁麻呂(やなまろ)が卒去した。梁麻呂は、弘仁二年に従五位下に叙され、十二年正月に従五位上となり、十四年に正五位下に叙された。天長三年に兵部大輔に任じられ、民部大輔に遷った。八年正月に従四位下を授けられ、承和の初めに丹波守として赴任し、京に戻って勘解由長官に補された。五年に従四位上となった。華々しい才能は無かったが、事務能力を以て称され、承和二年に左中弁に拝された。当時、役所に柿本安永(かきのもとのやすなが)という者がいて、口達者な人であった。しばしば秩序を乱すようなことを口にしていた。何度も官がその身を召喚して詰問したが、言葉巧みに言い逃れ、承伏することがなかった。梁麻呂はわずかに一問しただけで、安永は舌を巻いて引き退った。同僚は皆、「梁麻呂には遠く及ばない」と言った。年老いると劇務の官を去り、伯耆守を遥任された。六十五歳で死んだ。
笠氏というのは、かつて倭王権の成立にも大きく関わった吉備地方に勢力を持った吉備(きび)氏から分かれた氏族である。吉備氏は対朝鮮活動にも活躍した一族の総称であるが、瀬戸内海という海上交通の要を押さえ、山間部は鉄資源に富んでいたという条件から、倭王権にも比肩する勢力を誇った。六世紀の吉備氏の反乱伝承は、その表われである。
吉備氏の系譜は孝霊(こうれい)天皇皇子四道将軍の吉備津彦命(きびつひこのみこと)の後裔とも、弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)の子孫とも称するが、記紀の伝承は整合せず、信頼しがたい。吉備氏というのは多くの氏族の総称で、備前地方には上道(かみつみち)臣を中心に三野(みの)臣、備中地方には下道(しもつみち)臣を中心に加夜(かや/香屋・賀陽)臣・苑(その)臣・笠臣が居た。笠氏はここに含まれるが、その居地が詳らかではなく、最も新しく吉備氏系譜に割り込んだと見られている(『国史大辞典』)。
吉備氏は早くから中央に進出し、朝臣姓を賜って中央官界で活躍した笠氏(笠志太留[したる]・笠諸石[もろいし]・笠麻呂[まろ]など)や下道氏(後に吉備朝臣)、上道氏などがいた。平安時代になっても、学者となったり(賀陽豊年[かやのとよとし])、下級国司に任じられたり(下道色夫多[しこぶた]・笠雄宗[おむね]・賀陽宗成[むねなり]・笠名高[なたか]・上道忠職[ただもと]など)した者を出している。
賀陽氏は備中の吉備津彦神社の宮司として江戸時代まで賀陽国造を称し、一族からは栄西(ようさい)禅師が出ている。
笠氏は、先に挙げた笠志太留(垂とも。古人大兄王子の謀反を密告)・笠諸石・笠麻呂(満誓[まんぜい]。奈良時代初期の能吏)・笠雄宗・笠名高のほか、万葉歌人の笠郎女(いらつめ)や笠金村(かなむら)、征隼人将軍の笠御室(おむろ)、平安時代初期の良吏である笠宗雄(むねお)などが出ている。岡山県吉備中央町の鴨神社は、笠臣が祖である鴨別命を祀ったと称している。
梁麻呂は、民部大輔笠江人(えひと)の子とする系図もあるが、真偽は不明である。宝亀九年(七七八)に生まれ、弘仁二年(八一一)に三十四歳で従五位下に叙爵され、民部少輔に任じられたとあるから、その出自を考えると、異数の出世と言えよう。ただ、従五位上に昇叙されるまで十年を要しているのは、やはりその出身氏族が影響しているのであろう。
なお、姉妹が平城(へいぜい)上皇の側近である藤原仲成(なかなり)の室となっていることは『日本後紀』に見えるので、史実のようである。ただ、仲成が「薬子(くすこ)の変(平城太上天皇の変)」で射殺されているものの、その官歴にはまったく影響していないなど、梁麻呂は政治の表舞台とは一線を画していたようである。
◉平安貴族列伝(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59803)
淳和天皇の代になると、兵部大輔や民部大輔といった要職を歴任し、天長八年(八三一)に五十四歳で従四位下に叙された。四位というのは、なかなか到達できる位階ではない。
仁明天皇の代に入ると、勘解由長官、そして承和二年(八三五)に左中弁と、また要職に就いた。卒伝は、「華々しい才能は無かったが、事務能力を以て称された」と記すが、これこそが実務官人としてもっとも必要な能力ではないだろうか。
そして梁麻呂の隠れた才能が開花する日がやって来た。当時、役所(弁官局)に口達者な柿本安永という者がいて、しばしば秩序を乱すようなことを口にしていたが、いつも召喚されて詰問されても、言葉巧みに言い逃れたという。どこにでもこういった男はいるものであるが、梁麻呂が一問しただけで、安永は舌を巻いて引き退ったという。同僚は梁麻呂を褒めそやしたが、梁麻呂としてみれば、日常的な実務を行なっただけであったことであろう。
それにしても、この卒伝にのみ登場する柿本安永という男、柿本氏なのであるから、春日(かすが)・大宅(おおやけ)・粟田(あわた)・小野(おの)氏などの氏に分かれた、奈良盆地北部を地盤とした和邇(わに)氏の一族である。柿本人麻呂(ひとまろ)や小野妹子(いもこ)とも血のつながった人物であることを思うと、これくらいの弁舌があっても不思議ではない。いかなる官位を持ち、いかなる人生を歩んできたかはわからないが、何とも気になる人物である。この一件は、どのような経緯を経て、正史にまで伝わったのであろうか。
それはさておき、梁麻呂はこの後も目立った活躍を見せることなく、承和七年(八四〇)に大舎人頭に任じられたものの、その年の内に丹波守に転じた。この後、老齢であることから、激務を避けるために伯耆守に任じられ、任地には赴かない遥任で務めた。そしてそのまま卒去したのである。六十五歳というと、当時としては立派な老齢である。
梁麻呂には数道(かずみち)という子があったとする系譜があるが、史実としては定かではない。
なお、先ほど触れた遥任というのは、地方官に任命されながら、赴任して執務することを免除されることであるが、梁麻呂が伯耆守に遥授された例などは、国史にみえる遥任の早い例である。