(歴史学者・倉本一宏)
当時では長身の六尺二寸(約188cm)
甘南備高直(かんなびのたかなお)を取りあげよう。『続日本後紀』巻五の承和三年(八三六)四月丙戌条(十八日)には、次のような卒伝が載せられている。
散位(さんい)従四位下甘南備真人高直が卒去した。高直は天渟名倉太珠敷(あまぬなくらのふとたましき)天皇(敏達[びだつ])の子孫で、六世王五位下清野(きよの)の第三子である。父清野は文章生から大内記に任じられ、大学大允に遷り、宝亀年間に遣唐判官兼播磨大掾となった。帰朝した日に正五位下に叙され、肥前守に任じられた。兵部少輔・武蔵介に遷り、延暦十三年に卒去した。高直は身長が六尺二寸あった。若くして文章生となり、文筆にすぐれ、琴書に巧みであった。二十三年に少内記に任じられた。大同元年に大宰少監・西海道観察使判官を歴任し、弘仁の初年、続けて左右近衛将監に遷任された。六年に従五位下に叙され、陸奧・上野介に累任された。天長三年に常陸守となったが、訪採使の監査に遭い、前司の罪に関わり、釐務を停止された。しかし、常陸国の下僚も民も、高直の徳化に感じ、競って高直の必要とする経費を提供し、嵯峨(さが)太上天皇もまた、憐れに思って都合を付け、荘園の収益を高直の必要分に充てた。天長六年に摂津守に任じられ、仁明(にんみょう)天皇が踐祚すると、正五位上に叙され、次いで従四位下を授けられた。翌年、実母の喪に遭うと、悲しみで死んだも同然となり、幾くもなく卒去した。年は六十二歳。
甘南備真人という氏族は、六世紀後半の大王敏達を祖とする皇親氏族である。『新撰姓氏録』には、「路(みち)真人と同じ祖。続日本紀に合っている」とある。その路真人は、「諡敏達の皇子難波(なにわ)王から出た。日本紀に合っている」とあり、敏達の王子である難波王子の子孫であることを示している。
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難波王子を祖とする皇親氏族というと、葛城(かつらぎ)王が母である県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)の姓を賜わった橘宿禰が有名であるが、甘南備氏は天平十二年(七四〇)に神前(かみさき)王が甘南備真人に賜姓されたことに始まる。天平八年(七三六)に橘宿禰に賜姓された葛城王(橘諸兄[もろえ])と同世代であると推定され、あるいは諸兄の異母弟か従兄弟かもしれない。
その神前の子が高直の父である清野である。清野は『新唐書』東夷伝日本条に、建中元年(宝亀十一、七八〇)に遣唐判官として「書を善くした」と賞された「真人興能」のこととされている。なお、この遣唐使は唐使孫興進(そんこうしん)を送ったものである。『続日本後紀』の高直の卒伝は、清野の略歴についても詳しく記載している。清野の卒伝が(おそらくは)『日本後紀』に載せられなかったので、ここに合わせて載せたのであろう。
清野の第三子が高直である。宝亀六年(七七五)生まれであるから、父が唐に旅立った年には数えで六歳、高直はすでにその意味を理解していたことであろう。高直は大学寮で紀伝道を専攻した。紀伝道とは中国の歴史・漢文学を教科内容とする。教科書は三史(『史記』『漢書』『後漢書』)と『文選』であった。定員は二十人。紀伝道は令制には規定がなく、平安時代に入って成立したものであるから、高直は新しく設置されたこの学科に興味を覚えたのであろう。文章生となると、その先の文章得業生に進む者は少数で、大多数は文章生となってからの年数により、古い順で広く官途に就いたとされる(桃裕行『上代学制の研究』)。
高直も、「文筆にすぐれ、琴書に巧みであった」とあるから、文章と音楽に秀でていたのであろう。なお、身長が六尺二寸(約一八八センチメートル)というから、当時としてはとんでもない長身であった。延暦二十三年(八〇四)に三十歳で少内記、大同元年(八〇六)に三十二歳で大宰少監兼西海道観察使判官、弘仁初年(八一〇-)に左右近衛将監を歴任している。そして弘仁六年(八一五)に従六位上から三階も昇り、四十一歳で従五位下に叙され、陸奥介に任じられた。次いで従五位上に昇叙して上野介に遷っている。
しかし、天長三年(八二六)に五十二歳で常陸守に任じられた後、事件が起こった。訪採使(地方監察官)の監査に伴って、前任の国守であった佐伯清岑(さえきのきよみね)の罪に縁座して、国司の任務を停止されてしまったのである。ところが、常陸国の下僚も民も、高直の徳化に感じていたので、競って必要な経費を提供し、嵯峨太上天皇もまた憐れに思って都合を付け、荘園の収益を必要分に充てたという。それまでの清廉な勤務が功を奏したのであろう。
ちなみに、事件とは直接の関係はないが、これ以降、常陸国は親王任国となり、同年に賀陽(かや)親王が常陸太守に任じられた。したがって、高直が臣下で最後の常陸守ということになる。
この事件が高直の官歴に影響することもなかった。天長六年(八二九)には五十五歳で畿内の摂津守に任じられている。天長十年(八三三)に正五位下、そして従四位下と、位階は昇叙されているものの、官としては摂津守が最後のものとなった。以後は散位(位階だけあって官職のない者)として過ごしたようである。
そして承和三年四月、実母の喪に遭うと、悲しみで死んだも同然となり、間もなく十八日に卒去した。高直が六十二歳だったのであるから、当時としては随分と長寿を得た母であったが、その名は伝わっていない。いかにも高直に相応しい最期とも言えようか。
高直の子としては、弥雄(いやお)・六雄(むつお)・縄雄(なわお)の三名の名が伝わるが、いずれも正史には見えない。その次の世代となると、まったく不明である。