現在のアムステルダムの街並み

 オランダは、1581年にスペインから独立を果たします。しかし独立以前にオランダは、すでにヨーロッパ最大の“経済大国”となっていました。それは、オランダの「寛容さ」によるものと言えます。

 ヨーロッパに広がったキリスト教は一神教で、他の宗教に対しては排他的でした。そして、「異端は異教よりも悪い」などとして、自分たちの考え方の絶対的正しさを強調してきました。それが、今日にまで至るヨーロッパ社会の不寛容性を形成するベースになっています。

 そんなヨーロッパに、「寛容性」をもった地域が出現すれば、そこにはさまざまな宗派の人々が集まってくるのは自明の理です。するとそこでは、さまざまな文化が融合するだけではなく、宗派ごとに持っている商業情報も集まってきます。まさにそれがオランダであり、とくにアムステルダムがそうでした。

宗教的寛容と情報

 アムステルダムは、近世のヨーロッパ都市としては、信じられないほど宗教的寛容性に富んだ都市でした。オランダ共和国はカルヴァン派の国家であり、同派に属する改革派教会はカトリックに敵対的ではありましたが、弾圧を受けるようなことはありませんでした。他国に比べればオランダは、宗教的にははるかに寛容だったのです。

 それは1579年にスペインからの独立を目指すユトレヒト同盟結成時に、「何人も宗教的理由で迫害されることも、審問されることもない」と決められていたからです。それを端的に表す文章を引用してみましょう。

<オランダは、「哲学者にとっての天国であった」。・・・デカルトは、フランスではえられなかった落ち着きと安定をオランダに見いだした。スピノザは、破門されてセファルディム(スペイン)系ユダヤ人のヨーデンプラー通りから追い立てられ、オランダ人市民の住む、より友好的な地域に引っ越した。ロックもまた、ジェイムズ2世の暴虐を逃れて、オランダ人がイギリスの王位についた、より幸せな時代まで、この地に避難所を求めた。・・・オランダは間違いもなく、フランス人ユグノーにとっての亡命地であった。しかし、オランダ人はきわめてリベラルで、ユグノーをも受け入れたが、ヤンセニストも受け入れたのである。同様に、ピューリタンと王党派とウィッグのいずれをも、受け入れたのである。それどころか、ついにはポーランドのソッツィーニ派をさえ、受け入れてしまったのである。いわば、それらはすべて、「禁止は最少に、導入はどこからでも」というオランダ人の商業上の原則のおかげを蒙ったのである>(『近代世界システムⅡ—重商主義と「ヨーロッパ世界経済の凝集」』I.ウォーラーステイン著、川北稔訳、名古屋大学出版会、1993年、69頁)。

 このような宗教的寛容の代表的都市が、アムステルダムだったのです。アムステルダムは、ヨーロッパ最大のセファルディム(イベリア系ユダヤ人)居住地でした。さらに、ユダヤ教徒のためのシナゴーグ(会堂)までつくられていました。