伏見の京都アニメーション第1スタジオ放火、犠牲者数は本稿を準備している時点で34人に増えてしまいました。
各国から哀悼のメッセージが寄せられています。また追悼以外のリアクションもとりわけ欧州から受け取っています。テロ対策、無差別大量殺人の再発防止という観点です。
そもそも、放火の実行犯と目される容疑者の断片的な供述、わけが分かりません。
「自分の小説をパクりやがって」とか「パクられたからやった」といった発言が伝えられますが、実名が公表されたその人物が小説を執筆あるいは投稿していたといった事実は確認できていないらしい。
さらに百歩譲って、書いていた小説の一部なりとも、同様の表現が京アニ作品に見受けられたとして、ガソリンを撒いて放火、しかも明確に殺意を確認できる叫び声を上げながら着火するなど、正気の沙汰ではありません。
正気の沙汰ではない、しかし・・・
しかし、この容疑者が犯人であると認められ、司法の場で責任を問われるとしたら、どのようなやり取りになるか?
弁護側は直ちに、「まともな精神状態ではなかった」として立論するでしょうし、検察側は責任能力があったと主張するでしょう。
医師などによる精神鑑定はまず間違いなく責任能力ありと判断し、刑事司法の判断が下されることは、現代日本の国情を考えれば疑う余地もありません。
報道では「犯人の卑劣な行動に憤り」といった表現が目につきますが、率直に言って私は憤りとか以前に、こういう理も非もない実行犯に対しては、まず再犯の防止が第一であると感じます。
というのも、こうした話題を欧州の友人たち、つまりイスラム原理主義勢力とされる実行犯たちが、自分たちの住む町のど真ん中で、理も非もない無差別大量殺人事件を起こしている地域の住民たちと、議論しているからにほかなりません。