それから12年後の1968年1月、チェコスロヴァキアで共産党第一書記に就任したドプチェクは、事前検閲の廃止、市場経済方式の導入など、「人間の顔をした社会主義」を目指すことにした。しかし、社会主義体制崩壊の危険を感じ取ったソ連のブレジネフは、ワルシャワ機構軍20万人を投入して、この動きを圧殺したのである。「制限主権論」という勝手な議論を盾にとった軍事的弾圧であった。
さらに12年後の1980年、ポーランドでは、賃上げ要求が発端となり、政治的自由を求める労働者の運動が活発になった。これが、ワレサ委員長が率いる自主管理労組「連帯」の動きである。「プラハの春」と同様にソ連軍の戦車による弾圧寸前まで行ったが、ヤルゼルスキ首相は戒厳令をしいて、ワレサを軟禁し、予防的弾圧によってソ連の介入を防いだ。
同じ年、ハンガリーでは、市場原理を取り入れようとする経済改革の試みが始まった。このハンガリーの実験が、その後の東欧諸国の経済改革モデルとなっていくのである。
東欧諸国の経済改革の試みは、ソ連にも影響を与え、1985年3月に政権の座についたゴルバチョフはペレストロイカを開始する。そして、グラスノスチ(情報公開)や民主化を実行していったが、それが東欧諸国の改革に弾みをつけることになり、1989年11月のベルリンの壁崩壊へとつながっていったのである。
1991年12月25日、ソ連邦は崩壊し、ロシア連邦が成立した。1980年からほぼ12年が経過している。
「ベルリンの壁」崩壊で熱狂に包まれた欧州が・・・
今年は、ベルリンの壁崩壊から30年の節目である。当時、ブランデンブルク門近くの壁をハンマーで叩き割りながら、テレビ中継で日本の視聴者に東西冷戦終結の意味を解説したことを思い出す。あの熱狂が嘘のように、今日のヨーロッパでは不安と不満と混乱が広がっている。