足利持氏の嫡子、義久が自害した鎌倉「報国寺」の竹林

 日本史において最も人気の高い時代はいつかと言えば、十中八九、戦国時代こと室町時代後期が挙げられるでしょう。

 戦国時代がなぜこれほど人気なのかというと、司馬遼太郎をはじめ多くの人気作家の小説で題材に取り上げられたことに加え、駆け引きや決断が数多く登場するダイナミックな国盗りの物語が、時代を超えて多くの人々の興味を引き付けるためだと思われます。

 そんな戦国時代に入る直前、関東地方には、京都の足利将軍家の分家筋に当たり、関東地方の政務を統括する鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利家が存在していました。しかし、京都と鎌倉の両足利家は戦国時代の突入を待たずに衝突し、これにより関東は応仁の乱(1467年)に先駆けるかごとく一足早く戦国時代へと突入していきます。

 歴史マニアである筆者は、この時代の面白さをぜひ多くの人に知ってほしいと思っていました。そこで今回は夏休みスペシャルとして、そんな「戦国時代前夜」とも言うべき室町時代中期に関東で何が起きていたのかを、前編・後編に分けてまとめてみたいと思います。

足利幕府の鎌倉支社だった「鎌倉府」

 戦国時代前夜の関東を理解するためには、まず、後の抗争で主軸となる「鎌倉府」という足利幕府の機関について理解しておく必要があります。

 鎌倉府とは、“足利幕府の鎌倉支社”と位置付けることができます。京都に本拠を置いて西日本から中日本を支配する足利幕府に対し、関東から東北の東日本を支配する機関でした。

 長官である「鎌倉公方」には、室町幕府の初代将軍である足利尊氏の四男、足利基氏(あしかが・もとうじ、1340~1367年)の一族が就きました。基氏一族は、独立心が高く有力武士も多い東日本を本家に代わって支配しました。そのため当時日本は、西の室町幕府に対し東の鎌倉府というように、実質的に東西で2つの幕府があったということになります。

足利将軍家と鎌倉公方家の略系譜