日本国憲法が「押しつけ憲法」といった議論は、時折マスメディアで触れられることがあります。しかし、それがどういう経緯で「押しつけられ」たか、かつての周知の事実も最近はあまりメディアの表層には記されていない気がします。
1946年2月、終戦からようやく半年というタイミングでGHQ総司令官のダグラス・マッカーサーは現在の憲法の原案に相当するメモを作りました。
天皇の命と引き換え
これに基づいて占領軍のコートニー・ホイットニー准将が日本政府に原案を示した際、本案をのまなければ「天皇の安全を保証できない」という留保がついたという経緯が伝えられます。
実際にどのような発言があったのかには諸説あるようですが、戦勝国のうちソ連やオーストラリア、中華民国は天皇の戦争責任を強く追及し、その一部に昭和天皇の死刑、天皇制廃止の主張があったのは間違いありません。
結果的にGHQ~マッカーサーの判断で天皇制は保持され、昭和天皇が極東軍事裁判の被告人席に立たせられることはありませんでした。
逆に言えば、この憲法がなければ、1945-46年で、日本の天皇制は終わっていた可能性がある、シリアスな皇室関係者の中には明確にこの認識がありました。
しばしば指摘されるのは旧ロシア帝国、そして旧ドイツ帝国のケースとの参照です。
ロシアでは1917年7月17日、ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライⅡ世(1868-1917)一家が虐殺されたあと、10月25日いわゆる「10月革命」ボリシェヴィキ武力蜂起からロシア内戦が広がり、最終的に1922年のソビエト政権樹立に至った経緯がありました。
またこれに続く1918年11月、第1次世界大戦末期の混乱と国民、兵士の不満からキール軍港の反乱が発生、ドイツの11月革命が雪崩を起こし、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世(1859-1941)はオランダに亡命、ドイツを追放され、翌1919年ロシアに続く共産主義革命が企図されます(スパルタクス団蜂起)。
しかし、反革命のドイツ義勇軍によって鎮圧、指導者のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは虐殺されます。
この「反革命ドイツ義勇軍」が後にドイツ国家社会主義労働者党NSDSPの突撃隊SAや、さらに分かれて親衛隊SSにつながり、ナチスのホロコースト政策などに直結していった経緯がありました。
民衆暴動による旧支配者の虐殺/処刑/あるいは政治体制の変更による国外追放などの素地は、左傾(当時はソ連の盛期で赤色革命の現実的な可能性が危惧されていました)も右傾(軍部暴走の日本を降伏させた直後だったわけですから)も高いリスクがあった。