8月14日、内外の注目を集める中、安倍首相が戦後70年談話を発表した。言うまでもないことだが、10年ごとに談話を出す必要はさらさらない。村山50年談話、小泉60年談話をただ踏襲するだけなら、なおさらそうである。安倍首相は、この2つの談話とは違うものを出したいからこそ有識者懇談会「21世紀構想懇談会」まで設置して、談話の構想を検討してきた。単純に引き継ぐのなら、こんなたいそうな仕掛けは必要ない。
一部では、まるでバイブルのように村山談話が扱われているが、そもそも村山談話はそれほど立派なものなのか。
例えば、同談話には「遠くない過去の一時期、国策を誤り」とあるが、当時村山首相は、「どの内閣のどの政策が誤った」という認識かを問われ、「どの時期とかというようなことを断定的に申し上げることは適当ではない」と答えている。これでは日本のどのような行為について謝罪したのかさえ不明だということになる。こういう曖昧さを持っていたのが、村山談話なのである。
村山元首相は、安倍談話について「(村山談話が)引き継がれたという印象はない」と語っているが、当然のことである。もともと引き継がないために構想したものだからである。その意味では、「引き継がれたという印象はない」と当事者が語っているのだから、それだけでも安倍首相の作戦は功を奏したということだ。
ひたすら「お詫び」を続ける道からの脱却
では何を引き継がなかったのか。それは、ひたすら「お詫び」をし続けるという立場であったと思う。安倍首相は談話で、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争に関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。まったくその通りである。