「終活」という言葉を初めて聞いた。「就活」ではない。死ぬための準備活動のようなものらしい。
早い話が、自分の死んだときにあとの人が困らないよう、なるべく自分で事前に、整理できるものは整理、準備できるものは準備しておきましょうというようなことだ。それには、家のガラクタの整理から、財産目録や遺言状の作成、お葬式やお墓のこと、遺産の相続と、結構いろいろなことが含まれる。
思わず膝を打った「終活」という言葉
実は5~6年前から、私は、なるべく身軽になりたいという衝動に駆られていた。もう、物は要らないと思ったのだ。
そうでなくても、結構若いころから、なるべく身軽に、なるべく少なく、という気持ちが、強迫観念のようにどこかにあった。冷蔵庫が空っぽで、その日に食べるものだけをその日に買ってお料理できれば幸せだと、いつも思う。
だから、「終活」という言葉を聞いたときは、これだ!と思った。はっきりと死など意識したわけではなかったが、私がここ数年目指していたのは、まさに「終活」だったのだ。
自分にとっては大事でも、他人にとってはゴミと同じというものはたくさんある。夏目漱石なら、たとえ買い物メモでも価値があるかもしれないが、私の手紙や日記など、何の意味もない。
そもそも私の場合、自分で読むことさえもないのだ。そういう文書や写真、使わない物、それは、死ぬ前に、私自身が責任をもって処分したいと思う。自分たちと何の縁もない、知らない人ばかりが写った写真など残されては、娘たちが困るだろう。
その結果、4年ほど前、長年住んだ家を手放し、以後の生活の場は、シュトゥットガルトの町の真ん中の小ぢんまりとしたフラットに移した。快適だ。それ以来、本と資料だけは、油断するとあっという間に増殖するが、他はかなり制御できていると思う。
食器は、普段使いもお客さん使いもなく、好きなものだけにした。ただ、洋服だけは、かなり減らしたとはいえ、まだ衣装ケースが2つ地下室にあり、冬物と夏物の入れ替えが必要だ。次の目標は、すべてを半分にすること。部屋にある収納スペースに、1年分の衣装がすっぽり収まるようにしたい。
両親の家を整理してみたら・・・
去年から今年にかけて、東京の両親の家を整理した。まだ2人とも健在だが、年を取ったので、郊外の一軒家には住めなくなってしまったのだ。
その家は、誰が見てもびっくりするほど物が多かった。1階も2階も、そして庭にまで、あらゆるスペースに、必ず何かがぎっしりと詰まっていて、ほとんど零れ落ちそうになっていた。そして、それらのほとんどが、ゴミとガラクタだった。