不安視されていた治安面での大事件も起こらず、まずは成功だったと言えるFIFAワールドカップ南アフリカ大会。日本チームが「和」で成し遂げた躍進は感動的だったが、それとは対照的に「不和」がチーム力を弱体化させたのがフランスだった。
フランス大会とは正反対の評価を受けた南アフリカ大会
高額報酬で天狗となった選手、横柄な態度が目立つ監督、世代間の意思疎通の欠如、そして人種差別、と様々な原因が指摘されている。
しかし、思えば1998年のフランス大会で「和」を賞賛されていたのは、大会初参加の岡田監督率いる日本チームではなく、フランスチームの方だった。
代表選手に数多くの移民が含まれていることが議論を呼び、移民制限を唱える右派からの攻撃を受け続ける中での優勝は、フランスという国は「寛容の国、多文化融和の国」であるとの印象を世界に与えるものだった。
まさにスポーツが政治宣伝となったわけだったが、その中心的役割を果たしたのがアルジェリア移民2世のジネディーヌ・ジダンだった。
フランスの大都市郊外には「バンリュー」「シテ」と呼ばれる、あまり交通の便の良くない地域がある。
アフリカ、中近東、アジア、カリブ海、そしてEU拡大後の東欧とあらゆる地域からの移民に満ちあふれたこの国で、郊外の団地につくられ続けている彼らの分離社会である。
バンリューの実態が広く世界に知られるようになったのは、2005年11月に発生した一連の暴動からだった。
2人の移民少年が警官に追い詰められ変電所で感電死、そこに日頃からの不満が連結し各地で自動車に火がつけられる暴動へと発展した。
さらには、当時から強硬な姿勢が目立っていたニコラ・サルコジ内務大臣(現大統領)が彼らを「ごろつき」呼ばわりし、火に油を注ぐ結果となったのだ。