人形町の甘酒横丁。明治座に向かって真ん中あたりに居酒屋「笹新」がある。夕方5時の開店前にすでに何人かのオジサン。こんな時間から酒を呑む人たちを初めて見たときはとても新鮮だった。
そのオジサンの横にはベビーカーを押す女性、明治座帰りのオバサンたちなど、狭い歩道は結構人通りが多い。ただ当然だが、誰かにキュー出しされて動き始めているわけでなく、それぞれ自律した動きをしている。
そんな光景を見ながら、「あやとりブログ」で何度となく議論した「テレビは時間である」という言葉を思い出した。
「群像の時代」のテレビの時間
テレビは視聴者の時間とシンクロしないと成り立たないメディアだ。勝手に放送し、誰も見ていないというわけにはいかない。でも、テレビの時間は視聴者に合わせることができない。視聴者が一方的にテレビに寄り添わなければならないのが難点である。
スマートフォンもタブレット端末もなかった時代は、それでもテレビの送り込む時間に合わせてくれる人は多かった。それが、録画機の浸透やソーシャルメディアの成立後、複層化された時間のなかで、テレビのタイムラインはそのひとつに埋没する。
1つのスクリーンに1つの時間=情報を送る。それがテレビの最大の強みであり弱みであるなら、複層化した時間を表現するには、スクリーンを分割して複数の映像を同時に映したらどうだろう。
アメリカのテレビドラマ「24 - TWENTY FOUR」に、デジタル音が時を刻みながら画面が分割されていき、ジャック・バウワー、容疑者、CTIオフィスにいる人たちが同時に映し出されるシーンがよくあった。
同じ時刻に、それぞれが違う行動をする群像の描写。「24」のこの描写を見たときに、心を鷲掴みにされた。