1943年12月28日スターリンの命により「祖国を裏切った民族」カルムイク人たちは、1920年に認められた自治を取り消されることとなった。だた、それで終わりではなく、住んでいたボルガ河下流域から、シベリア、中央アジアに強制的に移住させられた。

 行き先も告げられず、荷物をまとめてすぐに家を出るように言われ、多くの人々が着の身着のまま連れていかれた。

 月日は流れ、昨(2013)年の12月28日で70年目になった。「ウルス作戦」と名づけられた、このカルムイク人の強制移住に関し、カルムイク共和国では12月初めから、博物館での特別展示や国際会議、追悼のコンサートなど多くのイベントが催された(なお、ウルスとはモンゴル系の言葉で人々を表すと同時に、国あるいは州といった領域を指すことばである)。

ドイツに協力したためシベリアへ強制移住させられた

強制移住で使われた車両(ウィキペディアより)

 12月28日当日12時には、すべての交通機関を止め、1分間の黙祷、同時に一斉にサイレンが鳴らされた。

 今回は、この強制移住とその傷痕についてである。

 カルムイク人は我々と同じ顔をしたモンゴル系の人々で唯一地理的にヨーロッパと呼ばれる地域に居住している。カルムイク人の歴史に関しては、「日本に憧れる欧州唯一の仏教国、カルムイク」を参照していただきたい。

 ロシア連邦を構成する共和国の1つであるカルムイク共和国には、この強制移住を記念する碑「出立と帰還」が建っている。1996年に建立されたこの碑の前では毎年12月28日に犠牲者を悼む儀式が執り行われる。2013年12月28日も、カルムイク共和国首長であるオルロフらが参加し、記念式典が行われた。

 1943年の強制移住の原因は、ドイツ軍に協力したことである。1941年、ドイツとソビエト連邦の戦争が開始され、ドイツ軍は当初快進撃を続けた。1942年8月、カルムイク自治共和国の首都エリスタはドイツ軍に占領された。

 実はこのとき、ロシア革命時に亡命したカルムイク人が、ドイツ軍に外国人部隊として参加しており、共産主義者として処罰すべき人々の名簿も作成していた。

 その年の終わりにはすでにソビエト軍側が盛り返しドイツ軍は撤退、同時にドイツ軍とともにいたカルムイク人たちも去っていった。占領地にいた人々の中には、ドイツ軍とともに社会主義を嫌い去った人々もいる。その数は3000人に上ったと言われる。

 解放後、残された人々が処罰の対象となり、強制移住に遭ったというわけである。