カスピ海西岸にはカルムイク共和国と呼ばれるロシア連邦構成共和国がある。その名称をいただく民族カルムイク人は2002年の国勢調査では人口約17万4000人、モンゴル系の言語を話し、仏教を信仰する人々である。顔も日本人と変わらない。
2009年9月、ロシアとのコンタクトを持って400年目を迎え、周辺地域から多くの客人を迎えた盛大な記念祭が催され、記念の国際学術会議も開催された。
今回はこのカルムイクの歴史と現在をお話ししたいと思う。
移住と離散を繰り返した歴史
1609年、現在の新疆ウイグル自治区に居住していた彼らが内部抗争を避けて、最初にロシア人とコンタクトを持った。ロシア領内に入ることを許された彼らは西へ進み、現在いるボルガ川下流域、カスピ海西岸に住み着いた。
移住した頃、この地域はまだ安定した状態とは言えず、南にはペルシャやトルコ、コーカサスの諸民族がおり、体のよい防波堤としてロシアに使われた形である。
やがて、彼らはこの場所で根を張り周辺地域への影響力を誇示した。すぐ東には同系のジュンガル帝国が存在し、お互いにコンタクトを取っていた。
カルムイク人の中にはカスピ海の沿岸からこのジュンガル帝国を通りチベットへ、権力がまだ確立されていなかったダライ・ラマ擁立のため兵士として参加した者がいることも知られている。後に彼らの首長はダライ・ラマからはハーンの称号を賜り、カルムイク・ハーン国となった。
18世紀初めに絶頂期を迎えるが、その後は下り坂となる。1757年、ジュンガル帝国が崩壊すると、彼らの地位は不安定となり、ロシアの圧力を嫌った人々は1771年、新疆に新たな国を打ち立てるべくこの地を去るが、新疆までの道のりで多くの人的な被害を受け、目的地に到着する頃は野心を持てる状態になく、清朝に帰順の意を示した。
ボルガ川下流域には半数ほどが残り、以後、ロシアの勢力下に完全に入ることになる。
ただし、彼らの軍事力はロシアに様々な形で利用された。中にはナポレオンを追って、パリに入城したものもいる。
ロシア革命期には民族同士で白軍と赤軍に分かれて戦うことになった。負けた白軍側はトルコへ、さらに東ヨーロッパやドイツ、フランスへ散らばり、第2次世界大戦以降は米国に移住した。