「日本人って、思ってもいないことを、にっこりしながら言う。最低!」と、次女のMが言った。

 彼女は、今年の夏、日本のある病院で看護師の実習をした。ヨーロッパの大学では、外国での実習を自分の学科の単位として組み込める制度がある。ただ、喜び勇んで来たものの、Mはまもなく、自分が受け入れられないと感じて、ひどく落ち込んだ。

 言葉の壁や習慣の違いから、さまざまな誤解が生じたらしい。日本人特有の直截的でない物言いは、彼女にとって棘のある言葉と感じられ、年下の者が目上の人に示す遠慮は卑屈な態度に映った。

「なぜ日本を好きでなければいけないの?」

 違和感は日に日に膨れ、Mの日本アレルギーは、あっという間に高じていった。小さい頃から日本に親しみ、日本が大好きだった娘が、今になって日本嫌いになるかと思うと、私は気が気ではなかった。

 それを知った私の周りの人間の反応は、おかしいほど一致していた。それは、「Mちゃんが日本を嫌いになっては困る!」の一言であり、続々と対症療法が提案された。弟曰く、「よし、一度皆で旨い物を食おう」。友人曰く、「息子を派遣するから、若い人たちで日本での楽しい思い出を作ってもらおう」などなど。

 ところが、それに対する娘の反応が、再び私を戸惑わせた。「なぜ、私が日本を好きでなければいけないの?」

 「当たり前でしょ。日本に来た外国人が悲しい思いをして、挙句の果てに日本を嫌いになるのは、見捨てておけない。あなただって、ドイツにきた外国人がそんな思いをしていたら、どうにかしたいと思うでしょう」

 すると、彼女はしばらく考えて言った。「ドイツで困っている外国人を見れば、もちろん助ける。でも、それはドイツを好きになってほしいからではないわ」。私は、不覚にも口ごもった。

 相手の言うことに納得できないのに、うまく反論できないことが時々ある。論破できなくても、せめて理路整然と意見を述べたい。でも、それができない。この時が、ちょうどそんな感じだった。

 なぜ日本を好きになってほしいかが、うまく説明できなくて、もどかしい。娘に日本を好きだと思ってほしいのは、当たり前ではないか。日本は私の国なのだ! しかし、そのとき心の中に突然、なぜ私は日本が好きなのだろうという疑問がわき起こった。