クロアチアとセルビア、その数年前まではユーゴスラビアという1つの国であったが、すでに分離していたこの2国に最初に足を踏み入れたのは、1999年6月、米国・北大西洋条約機構(NATO)連合軍によるセルビアへの空爆が終結した数週間後だ。なぜそんな時期に行ったのかというと、隠すほどのことでもないので言うが、新婚旅行だったからだ。

 スウェーデンから車で出発、まずフェリーでデンマークへ渡り、その後はひたすら南下した。ドイツという国は予想以上に広大で、アウトバーンをかなりの速度で飛ばしても、抜けるのに1日かかった。オーストリアにたどり着き、そびえ立つ山々の絶景をながめながらホテルに1泊した。

初めて訪れたクロアチア、セルビア

 翌日にはクロアチアの首都ザグレブに到着した。

 義父の妹の家に立ち寄り休憩して後、山がちの内陸部を通過して、セルビアの首都ベオグラードに向かった。道中は崩れた家と瓦礫が交互に現れる殺伐とした風景で、過去何世紀にもわたり、1990年代に入ってからも何度も戦われた戦闘の痕跡が生々しかった。

 ベオグラードは日本の夏と同じくらい暑かった。街の人は歩きながらコカ・コーラを飲んでいたし、マクドナルドの看板も破壊されたりすることなく、世界中のマクドナルドと変わりなく営業していた。  

 が、市民はもちろん市街や住宅への爆撃を遂行した米国に対して憤っていたし、この戦争により多大な損失を受け、あらゆる物資が不足し、経済的には非常に困窮していた。夫のいとこの1人は、ガソリンを売って何とか生計を立てていると言ったが、恐らくヤミ取引なのだろう。

 日が落ちた後のレストランでは、通りにしつらえたテーブルで、夫のいとこたちと一緒にチェバプチチと呼ばれる俵型肉だんごを食べ、ビールを飲んだ。多くの人通りでにぎわい、音楽隊が路上でアコーディオンやバイオリンを奏で、お祭りのようだった。通りや広場には屋台のように出店が立ち並び、キティちゃんの風船や人形なども売っていて、私を何がしかほっとさせてくれた。

 ベオグラードには、義父の親戚縁者がいる。義父はセルビア人で、ポアチャという姓もセルビア系だ。彼の一族は、もともとクライナという辺境の出身だが、20歳ほど年が離れた義父の兄が出世し政府に要職を得た縁で、義父一家はクライナを出、一気にベオグラードという大都会に住めることになったのだ。義父はそこで、働きながら夜間高校を出ることができた。

 義父はある時、スウェーデンに移民していた別の兄を訪ね、その地に魅せられそのままスウェーデンに住むことを決めた。何よりスウェーデンにはまともな職があった。