原発事故から避難生活を送っていたみなさんを2011年夏から2012年初頭にかけて訪ねて歩き、本欄で報告を書いたことをご記憶いただいていると思う。6月下旬、その人々を再訪して歩いた。

 福島第一原子力発電所事故直後、私が取材に来たのが原発から北の太平洋岸の街、福島県南相馬市だった。「原発から20キロ」「30キロ」という官僚が地図の上に引いたラインで市域が分断され、食料やガソリン供給など生活基盤が麻痺していたのを聞いたからだ。復旧したあとも、深刻な放射能汚染が残った。南相馬市の現地取材が一段落したあと、市外の山形県や群馬県に避難して暮らす人たちを訪ねた。意志に反して見知らぬ土地に住まわせられるストレス。原発事故被害者への偏見。先の見えない不安。焦燥感。金銭的な限界。子供の心配。そんな彼らの抱える苦しみを、本欄で報告してきた。拙著『原発難民』(PHP新書)にもまとめた。

 その避難者たちを再訪しようと思い立った。原発事故から27カ月である。あの人たちはいま一体、どうしているのだろう。

 ノートの片隅にメモした携帯電話の番号やメルアドを手がかりに連絡を取ってみると、6人のうち2人が南相馬市に帰り、2人が依然山形県で生活していた。残る2人は「元の避難先よりは近いが、南相馬市からは離れた」場所で生活を再開していた。

 ほぼ2年ぶりだった。会ってみると、誰もがすっきりしない顔をしていた。「地元」である南相馬市や近辺に帰ることができて、さぞやほっとしておられるのではないか。しかし、期待は外れた。下がったとはいえ、線量は事故前には戻らない。除染も予想したほどは進んでいなかった。「避難を続けるお金がない」「子供や妻が持たない」「もうどうしようもない」「先が見えない」「現実的に考えると他に選択肢がない」。そんな「あきらめ」「力尽きた」という感じの言葉を何度も聞いた。どんな事情があるのだろう。「原発難民」をもう一度訪ねて回った。

子どもの4割が戻ってきていない

 福島市で新幹線を降り、レンタカーを借りた。1時間半ほど車を運転して、南相馬市に着いたのは金曜日の夜だった。市役所やJR原ノ町駅がある中心部を走った。街の明かりが数多く戻り、居酒屋やホテルに電気が灯っていた。ラーメン屋、焼肉屋、中華料理屋。通りを歩く男性の姿が目についた。すれ違う車が増えた。右折するとき対向車を「待つ」ほど増えていることに気付いた。

 原発事故直後の2011年4月、このへんは真っ暗だった。飲食店はおろかファミレス、コンビニさえ閉まっていた。自分の食事すら確保が難しかった。人も車もすれ違わない。街がからっぽだった。

 その同じ風景に明かりが灯り、人や車が行き交っているのを見ると、何か「街の脈拍」が戻ったような感覚がした。じんとするような感動を覚えた。素朴に、うれしかった。