ロシアが市場経済に移行して、20年以上の時間が経った。ここモスクワのスーパーにはモノがあふれ、テレビでは本番組よりもコマーシャルの方が長いのではないか、と思うほど社会の様相は日本社会と似てきている。
日本の大学での講義で筆者は「ロシアを知るには、ソ連に関する基礎的な知識は不可欠」と言い続けているが、最近のモスクワでは、「それも本当かなぁ」と自問することがある。
東のイルクーツク、西のノボシビルスク
そんな今年5月中旬、筆者の関係するサントリー酒類のノボシビルスクでのイベントに参加するため、久々にシベリアに飛んだ。
久々、とは書いたものの、筆者がシベリアの地に足を踏み入れるのは、1980年代後半に川崎重工業が手掛けたコンテナプラントの引き渡しの際に、何度かアバカンという町にモスクワから出張して以来の話だから、30年近くシベリアには縁がなかったことになる。
いや、シベリアと一口で言うのは雑に過ぎる。ノボシビルスクを玄関とするのは西シベリアのことであり、バイカル湖を含む東シベリアは、イルクーツクが中心都市だ。ともに同じ連邦管区に属するが、州も異なるし、歴史も民族構成も異なる。
日露関係を論ずる時、日本人の心の中に大きなわだかまりを残している問題は2つある。1つは、北方領土問題、そしてもう1つが第2次世界大戦後のシベリア抑留問題である。
そのシベリア抑留は、バイカル湖を中心とした東シベリアに点在したラーゲリ(収容所)が舞台になる。イルクーツクの日本人墓地は、その規模の大きさから(280墓標)大変有名であるし、また古くは大黒屋光太夫の居住地として、また近年は金沢市との交流など日本との関係も強い。
このイルクーツクのある東シベリアと極東の諸都市は、割と感じが似ているとウラジオストク在住の方から聞いたことがあるが、その感想に西シベリアは入らない。
一方、ノボシビルスクは、ノボ(新しい)という接頭辞がつく通り、1893年に都市宣言された町で、当時のロシア帝国政府の政策により生まれた新しい町と案内書には説明されている。
誕生以来、シベリアとモスクワを結ぶ窓口となっていて、現在人口140万人、イルクーツクの60万人と比べると、2倍以上の規模の都市である。先述の日本人捕虜も送り込まれてはいるが、その規模は小さく、日本との関係もそれほど歴史のあるものではない。