2013年、今年もまた、いろいろな意味での節目の年に当たっていると思います。私たち音楽家にとっては2013年はとりわけ作曲家リヒャルト・ヴァーグナーの生誕200周年に当たり、長年ヴァーグナーに取り組んでいる私にとっては仕事を進めやすいタイミングになりました。
2013年だからいきなり、では何も起きません。2009年も2010年も、また3月11日の災害があった2011年も私たちはヴァーグナーに取り組んできました。
2010年には私たちのプロジェクトのカウンターパートナー、作曲家の孫にあたるヴォルフガング・ヴァーグナーさんが逝去され、もろもろの仕事がいったん中断、どうしたものかと天を仰ぎました。
また彼の1周忌に当たる2011年3月20日に国際シンポジウムを準備していましたが、直前の3.11で東京都内は様相一変。
ドイツ連邦共和国大使館は大阪に避難してしまうし、成田便は離陸時に福島上空を旋回するから危険、という風説のためルフトハンザ航空が成田就航を見合わせ大阪と名古屋に便を付け替え、さらに多くを韓国・仁川空港経由とするなど、大変な状況となりました。
が、2011年3月20日、ヴォルフガング・ヴァーグナーの1周忌は後にも先にもこの日しかありません。私たちは慶応義塾大学北館ホールでの国際シンポジウムを決行することとしました。
雨のしとしと降る日でしたが、東京・港区は三田のキャンパスから、ネットワーク中継を世界に向けて飛ばし、ベルリンやバイロイトと結びながらシンポジウムを行いました。
たまたま当日登壇された元在ベルリン、ミュンヘン総領事の津守滋・元ミャンマー大使がチェルノブイリ事故当時、在モスクワ日本大使館の一等書記官として、日本政府として事故情報を扱う当事者でもあったことから、ヴァーグナーのシンポジウムながら2011年3月20日の慶応義塾大学三田北館ホールからの国際発信は、この時期絶無状態だった、ネットワークを通じて日本の責任ある有識者が現状を国際発信する場となりました。
風評が風評を呼び、多くの外国企業が東京事務所を閉鎖し、大阪はおろか日本を撤退して、東アジア拠点を上海やソウル、シンガポールや香港に移し始めているという3.11直後の段階で「日本はちゃんとしている」「東京も大丈夫で、実際にいま私たちがこうしてヴァーグナーを演奏もしている」とドイツ、EU(欧州連合)に発信したことは、小さい規模のものではあったけれど、非常に意味があったと、後に外務省関係者から感謝の言葉を頂きました。
「災害の初心」
ここで思うのが「初心忘るべからず」なんですね。何の初心かと言えば「災害の初心忘るべからず」、つまり地震が起きた直後、あるいは原発事故が起きた直後のことを、改めて思い返してみたいのです。
いろいろ時間が経ってからなら、後知恵で何とでも言えます。100の意見があったとして、よほど後になってからいろいろ調べてみた結果、たまたまAさんが言っていたことが当たっていたとしましょう。
それはそれで貴重なことです。でもAさんが言っていたことが10あったとして、たまたま当たった1つ以外がどうであるか、といったことは、この種のことにマスコミが注目する際、きれいにすべて消し去ってしまいます。