米国、ベル研究所でのトランジスタ開発秘話はすでに山のように世の中にあると思います。そんな中で、かつて物性物理の実験に携わっていた音楽家として思うのは、開発に関わった3者の持ち分の違いです。
1956年にノーベル物理学賞を受賞したウイリアム・ショックレー(1910-1989)、ジョン・バーディーン(1908-1991)とウォルター・ブラッテン(1902-1987)の3人は、音楽家で言うなら各々「性急なコンセプチュアルアーティスト」「熟達のコンポーザー=コンダクター」そして「老練なプレーヤー」というような違いがあると思うのです。
ショックレー試算と原爆投下
ショックレー、バーディーンとブラッテンの3人が、各々トランジスタの開発に決定的な寄与があったのは間違いありません。この中で、一番若いショックレーが、実は3人をまとめるチームリーダー、管理職の立場にありました。
ショックレーという人は善くも悪くも性急なエリートで、かつIQの高い要領のいい人でもあったらしい。
26歳でMIT(マサチューセッツ工科大学)で学位を取ったのは、高名なスレーター教授の下で、早くからベル研究所で固体物理学の初期に理論家としてパイオニア的な業績を上げています。
1941年太平洋戦争が勃発すると翌42年には海軍のプロジェクトにリクルートされ、対潜水艦戦の軍事研究に携わります。
このとき、ジョン・バーディーンと知り合いになるのですが、バーディーンが音波の反射など物理現象の詳細な解析に力を発揮するのに対してショックレーはペンタゴンなどと頻繁に往復し、オフィサーとしての仕事で業績を上げたようです。
よく言われるのは、1945年7月、沖縄を押さえた米軍が対日上陸戦を敢行すべきか、という軍事的な意思決定に対してショックレーがコンサルタントとして試算を提出したことです。
「仮に対日上陸戦を行えば1000万人ほどの日本人を殺さねばならず、その際米軍側にも100万人近い被害が出るだろう」という予測を軍指導部に示したという逸話で、これを1つの参考に米軍は本土上陸作戦を放棄し、翌8月6日に広島、9日に長崎への原子爆弾投下を決定した、などと言われています。
後年のショックレーが極端な優生学を主張したため、こうした話が喧伝されるのだと思いますが、実際ショックレーという人は、こうした概算を軍に示すことができるキャラクターだったようです。
物理屋というのは誰しも、こういうザル勘定が実は得意というか好きです。私も時折この連載にそういうことを書きますが、仮に考えたとしても公にするか否かは別ですし、どういう根拠でどういうことを言うかも人さまざまでしょう。
ショックレーという人は、仮に実現の可能性が低くても、試算から明らかな事柄はどんどんプロジェクトとして進めてしまうような聡明さと性急さ、そして我慢できないキャラクターを持っていたようです。
切れやすかった真空管
戦争が終わり、軍の科学者から古巣のベル研に戻ったショックレーは、政治的にも力を持つリーダーとして、当時悩みの種だった「真空管のタマ切れ」への最終兵器的解決策、「パワーストーン」の開発に取り組みます。固体スイッチング素子「トランジスタ」にほかなりません。
ここで詳細な物理や情報理論を記しませんが、世の中にあるあらゆる電子回路は「そろばん」と基本的に同じ演算を大量高速に行っています。
そろばんはタマを動かしますね。これを電子回路ではスイッチのオン・オフで行っている。フォン・ノイマンが原爆開発やそれを弾頭につけたミサイル弾道計算などのために最初のコンピューターを作ったとき、このスイッチング素子として「真空管」が利用されました。
三極真空管というスイッチング素子は、電球と同様加熱されたフィラメントから電子が飛び出すよう、網焼きグリルのようなグリッドと呼ばれる加速電極で電圧をかけ、飛び出してきた電子を鉄板焼きのようなプレートで集める「電球」で、「グリッド電圧」を制御することで「フィラメント」と「プレート」の間を電子が飛んだり飛ばなかったりする、というスイッチングを実現していました。