2012年10月から1カ月半、アメリカ各地を取材して回った。アメリカから日本への核技術移転の歴史を取材するためである。その途中で、東海岸・ペンシルベニア州にある「スリーマイル島原発」(Three Mile Island Nuclear Power Plant)を訪ねた。1979年3月にメルトダウン事故を起こした原発だ。福島第一原発事故のように、商用発電原子炉がシビアアクシデントを起こして放射性物質を周辺にまき散らした先例として、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故と並んで記されてきた。そうした歴史的にも重大な事故が起きたにもかかわらず、日本の報道ではほとんど「スリーマイル島原発周辺はその後どうなったのか」の報告を見ない。福島第一原発事故後も、なぜかチェルノブイリばかりが報道され、スリーマイル島事故はほとんど出てこない。私はそれが不思議だった。

 福島第一原発事故が教訓を学ぶためには、チェルノブイリよりスリーマイル島原発の方が比較がしやすい。当時社会主義国だったソ連で起きたチェルノブイリ事故と違って、スリーマイル島事故は日本と同じ資本主義国であるアメリカで起きた。政府と電力会社、住民との関係や裁判制度は、旧ソ連よりアメリカの方が日本に似ている。またチェルノブイリは半径30キロ以内の住民は強制的に避難させられ、無人地帯になってしまった。現地に行っても、住民が残っていないのだ。ところが、スリーマイル島原発周辺はそうした強制避難の対象にならなかった。住民はそのままそこに住んでいる。現地に行って住民に話を聞くなら、スリーマイル島の方がいいのではないか。ずっとそう思っていた。そしてアメリカは日本より情報公開が法律で保護されているので、当時の記録を私のような外国のジャーナリストでも読むことができる。

 事故当時から住むスリーマイル島原発周辺の住民を訪ねて、話を聞いた。紹介の窓口になってくれたのは「スリーマイルアイランド・アラート」という地元ハリスバーグの市民団体だ。原発事故の前1974年から原発の監視活動を続け、今も続いている。32年が経過した今もなお活動している数少ない市民団体だ(そうした意味で、出てくる意見が政府や電力会社側より住民側の視点であることは前もってお断りしておく)。

 話を聞くたびに、福島第一原発周辺で取材した話にそっくりの話が次々に出てくるので、あっけにとられた。政府や電力会社の隠蔽や混乱、新聞テレビの無能ぶりもそっくりだった。スリーマイル島周辺の住民の話は、フクシマの住民の話とそっくりだった。また、日本の原子力防災政策が学ぶべきだった教訓は、すべてそこにあった。30年も前からずっとそこにあったのだ。その意味でも原子力行政や報道の怠業がよく分かった。そして住民の健康被害、疫学調査、裁判の結論など、フクシマがこれからたどるであろう、すべてがそこにあった。それはフクシマの32年後を示す「予知夢」のようだった。それは「原発事故が起きたらこうなる」というスリーマイル島からフクシマへの「伝言」のように思えた。しかし、日本政府や電力会社は、スリーマイル島事故の教訓から何も学んでいなかった。今回から数回に分けてこの「スリーマイルからフクシマへの伝言」を報告する。

原子炉まで数百メートルの地点に民家が

 首都ワシントンからフリーウエイを運転して北に走った。なだらかな丘陵をいくつか越え、赤や黄に色づいた森を抜けると、約2時間でペンシルベニア州に入った。州都ハリスバーグは「サスケハナ川」沿いの街だ。日本では見たことがない幅の広い、大陸の川である。車が川にかかる長い橋に入ると、前方に教会の尖塔や政府庁舎らしい金色のドーム建築が見えてきた。間もなく到着だとほっとする。