イスラエル軍のガザ地区への空爆が続いている。国連、欧米そしてアラブ諸国などから要人が次々とイスラエル、ガザを訪れ、停戦への仲介を試みているものの、この原稿を書いている日本時間20日深夜の時点では実現しておらず、地上戦への展開が懸念されている。
こうして多くの国、機関が仲介にあたろうとするのも国際社会の危機感が強い証拠だが、そのどこもがこの地の歴史に関与してきた過去もある。
パレスチナを混乱に陥れた英国の三枚舌外交
その紆余曲折の道程は、聖書、ディアスポラ、十字軍などの昔から、現在のハマスとファタハの対立に至るまで、語るべきことがあまりにも多い。今回は100年ほど前から話を始めることにしよう。
1913年、バルカン半島から中東に至るまで広大な地域を長年支配してきたオスマントルコ帝国は瀕死の重症だった。そんななか、同じイスラム教徒とはいえ、トルコ人に支配されていたアラブの人々は自治権拡大を求めるべく会議を開く。
ところがその翌年、第1次世界大戦が勃発、トルコが掲げるジハードと自らの独立との間で板挟みとなるなか、英国が申し出たのが独立を支持する用意があるという「フサイン・マクマホン協定」。
その一方で、ユダヤ人がパレスチナにナショナルホームを建設することを支援するという「バルフォア宣言」、さらには英仏露での戦後の領土の取り決め「サイクス・ピコ秘密協定」まで存在することなど知るはずもなく、英国に協力することに同意したのだった。
そんな三枚舌外交の本意をいかほど知ってのことか、その地へと送り込まれた英国人トーマス・エドワード・ロレンスが、アラブの人々を率い大活躍を見せる姿は大作『アラビアのロレンス』(1962)でお馴染みのものだ。
戦後、こぢんまりとしたものとなったかつての巨大帝国は、世俗イスラム国家トルコ共和国として再出発を遂げた。
一方のアラブも、ロレンスとともに戦ったファイサルを王に据え大シリアの独立を宣言したものの、英仏は、シリア・レバノンをフランスの、イラクとパレスチナを英国の委任統治にすることを決定、フランスがダマスカスに侵攻し、武力でファイサルは国外退去させられてしまう。