菅直人内閣が震災直後に設けた「東日本大震災復興構想会議」(以下、「会議」)の委員として、2011年6月に会議がまとめた「復興への提言~悲惨のなかの希望~」と題した復興ビジョン(以下、「提言」)の作成に参画した。それから1年余、このビジョンが具体的な施策としてどれだけ実行に移されたのか、また、「会議」で議論するときには明確になっていた事柄で、政府が新たに対応しなければならなかったことはないかを検証したい。

 本来であれば、「会議」が自分たちの責任として検証すべきだと思うが、「会議」は解散し、法律(東日本大震災復興基本法)上も「会議」の条項が削除されたため、委員の1人だった個人の責任として、発言する。

国の動きが遅いため身動きできなかった被災地

 「会議」が初期の段階で確認した「復興構想7原則」は、その「原則2」で、「地域・コミュニティ主体の復興を基本とする。国は、復興の全体方針と制度設計によってそれを支える」ことを掲げた。地域が主体で、それを支えるのが国という考え方だ。

 しかし、現実はどうだろうか。ほとんどの復興計画が各省庁の予算で消化する縦割り型の仕組みの中で実行に移された。その結果、市町村は国の方針を待つ姿勢となり、復興計画の立案が大幅に遅れたうえ、復興の現場にとっては、「帯(おび)に短し、襷(たすき)に長し」という使い勝手の悪い施策になった。

 地方が使える資金としては、2011(平成23)年度の第3次補正予算で、「東日本大震災復興交付金」の制度が創設され、1兆5000億円の予算がついた。しかし、本格的な復興予算となるこの補正予算が成立したのは2011年11月21日で、震災からは8カ月、そのビジョンである「提言」が出てからも5カ月たっていた。

 「提言」では、津波が激しかった地区の住民を高台移転するビジョンが示されたが、その予算が盛り込まれたのはこの復興交付金で、地方がどのくらい使えるかが分かるまで時間がかかりすぎた。このため、集団移転をあきらめた住民が別の場所に移ったり、転売目的の業者が土地を買って虫食い状態となって跡地利用が難しくなったり、元の家を修復して住み始めた住民が出てきたりした。元のコミュニティは分断され、住民の意識がばらばらになったうえ、修復した家が居住禁止地区に指定されて、いずれ移転を迫られるといった悲劇も生まれている。

 「会議」では、高台移転の対象となるような地区を公有地化する方針を早く政府が表明しないと市町村の復興計画ができない、との懸念が複数の委員から示された。また、こうした原資として一括交付金や基金を地方自治体に供与する方針を早く示すべきだという意見もあった。しかし、「会議」が最終的な提言を待たずにその場で発する「緊急提言」という手法が、会議の途中から事実上、封印されたうえ、財政当局の影響力の強い「事務方」の論点整理でも、さらには「提言」の素案でも、こうした主張は弱められ、最終的な「提言」でも、地方へのメッセージを込めることができなかった。その結果、第3次補正予算案が出されるまで、被災地には政府の方針は届かなかった。