ニッケイ新聞 2011年12月14日~12月17日
(世界各地の沖縄出身者がネットワークの構築と交流のため一堂に会した昨年の大会から)
第13回=ご真影踏まず“島送り”=故郷でやり直した戦勝帰国者
「日本が勝っていると信じて、父は終戦後の1954年、20歳だった私を連れて沖縄に帰ってきました」
那覇市内の青年会館で10月15日晩、ブラジル沖縄協会と沖縄産業開発青年隊が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会の場で、玉木良子さん(たまき・よしこ、78、二世)=那覇在住=は、初対面の記者にいきなりそう告げた。
今大会にあわせて出版した自伝『大洋にかける橋』(沖縄自分史センター、11年)を手渡し、「全てがここに書いてあります」と畳みかけた。
父宇根良治(うね・りょうじ)は42歳の時、モンテビデオ丸で1926(大正15)年に渡伯した。一般の日本移民と同じ戦前の“団塊世代”に属し、沖縄県系人にとっては第2弾世代となる。
日本国外務省は沖縄県人の耕地逃亡やストライキ多発に手を焼き、2回目の渡航禁止処分にし、ようやく解禁し始めたときだ。沖縄県人は球陽協会を組織して本格解禁を要請したまさにその年、宇根さんは渡伯した。
県人が集中するジュキア線ムザーセアに農地を買い、バナナ園を経営した。大戦勃発後、地区の顔役であった父にDOPSから出頭命令が下り、聖市で拘留された。地域住民が嘆願書を書いて釈放運動をし、ようやく出される手筈になった。
ところが拘置所の「門の出口まで来た所で難関があり、父は試された。出口に『天皇陛下の写真と日の丸の国旗』がしかれていたのだ。踏んで出るように言われ、父は踏めずに残る道を選んだ」(同57頁)。そしてアンシェッタに“島送り”にされ2年を過ごした。
出所した父を見て、「泣くまいと心に決めていたが、久しぶりの父の姿を見たとたん、涙があふれ出た」(同59頁)。父はその時点で帰国することを決意していたが、母は様態が急変し52年9月に亡くなった。一家は54年6月に念願の帰国の途についた。
「当時の沖縄は太平洋戦争の傷跡がまだ残っており、復興途中の何もない島だった。一方ブラジルは、経済的にも栄華を極め、食料も物資も町にあふれていた」(同64頁)。しかも米軍統治の時代だ。誰もが豊かなブラジルへ向かう中、「勝ったはず」との父の信念から宇根家だけ逆方向を辿った。
あまりに珍しいので当時写真入りで地元紙に報道された。父はすでに61歳だった。
「父は日本に帰ってからも決して『負けた』とは言いませんでした。それぐらい強い意志を持っていた。だからみながブラジルに向かうなか、復興前の沖縄に帰ってきてやり直すことができた」
良子さんは「日本行きはイヤだった。2、3年したら帰ろうと思っていたのに、そのままになってしまった」とふり返る。ブラジルで洋裁を学んでいたので資金を融通してもらって洋裁店を開き、「帰伯するための費用」と思って懸命に稼いだ。そんな時、夫の玉木正明さんと出合った。
玉木さんの父は琉球政府の移民課長で送り出し側の責任者だった。ブラジル帰りの良子さんに目をつけて、55年に設立された沖縄開発青年隊でポ語教師をするように依頼し、彼女は喜んで引き受けた。当時、田畑の軍用地収容を受けた沖縄では、青年たちの働き場はなく豊かな伯国はまさに新天地だった。
良子さんは「ブラジルじゃステーキの大きいのが毎日食べられるわよと言ったのを聞いて、渡伯を決めた隊員もいる」と思い出し笑いをする。
正明さんと結婚し、72年に玉木病院を開院した。県系の伊波興裕サンビセンチ市長(当時)の申し入れにより、78年に那覇市と姉妹都市になった時、良子さんが仲を取り持った。「万国津梁の気概を忘れずに世界をつなごう、それが私たちに託された使命」(111頁)。同書はそう締めくくられている。