金華山を従えて太平洋に突き出た宮城県石巻市の牡鹿半島、その真ん中あたりの石巻湾に面した海岸に「給分浜(きゅうぶんはま)」という集落がある。
山が海に落ちるその際(きわ)に県道が走り、山側にへばりつくように民家が建っている。「表浜」と呼ばれる地域の1つで、漁業で生計を立てている家ばかりだ。
そこに住む須田賢一さんという漁師にずっと会いたいと思っていた。
東日本大震災による津波で、給分浜は他の浜と同じようにほとんどの家が被災し、流されたり大きく壊れたりした。震災直後は、須田さんの安否が気になっていたのだが、人づてに無事だったことを知った。しかし、家が津波をかぶり、住めない状態になっていたと思ったので、なかなか会いに行けなかったのだ。
沖合から燃え広がる石巻の火災が見えた
先日、電話をかけたら、家に戻っているというので、早速、会いに行った。津波で大きく破壊された1階は修復が終わり、真新しい壁ができていた。中に入ると、畳の和室も板張りの洋室もすべて修復され、真新しくなっていた。仏壇があったので、よく残りましたねと言ったら、新しいものに買い換えたのだと言う。1階は何もかも津波が押し流していったのだ。
津波の日、須田さんは長男の一紀さんと一緒にメロウド漁に出ていた。「メロウド」とは、イカナゴの地方名である。幼魚の時は「コウナゴ(小女子)」で、成魚になるとメロウドと呼ばれる。
仙台湾に漂いながら、地上と同じような揺れで大きな地震を体感したが、大きなうねりとなって来る津波は分からなかったという。漁業無線で津波の襲来を知り、帰港を断念。津波が収まるのを待ったが、繰り返し押し寄せているようだったので、沖合で夜を過ごすことになった。
石巻の港の方を見ると、真っ赤に燃える火が見えたという。南浜から門脇にかけて燃え広がった火災だった。魚市場の背後にある水産加工団地に勤める子どものことが心配になったが、炎の勢いが激しかったので、子どもはもうだめかと思ったと言う。
翌朝、浜に戻った。港の防波堤、海岸近くのカキの共同処理場などの施設、海岸沿いの民家、みな破壊され、景色は一変していた。妻と母親は逃げて無事だったが、県道から山側に入ったところにある須田さんの家は壊れて、ヘドロが家の中に入り込んでいた。