戦時遭難船という言葉をご存じだろうか。言葉通りに解釈すれば、戦時中になにがしかの難に遭った船ということになる。しかしこの場合は、船と言ってもすべての船ではなく、軍艦以外の船、つまり戦闘行為とは関係のない民間の商船のことを指す。

多くの商船と民間人が無差別攻撃の的となる

「戦没した船と海員の資料館」に張り出された船の写真

 戦時中、日本の船舶はすべて事実上国家の管理の下に置かれ、米国側もこうした船舶が軍事輸送の目的で航行していたと認識していたため軍艦との区別なく無差別に船舶を攻撃してきた。

 そのため戦闘とは関係のない船員や貨客船に乗船していた普通の人が犠牲となった。

 本来攻撃されるはずのない民間の船が次々と米国の潜水艦による魚雷や空爆によって沈められた。

 とはいえ、広島・長崎の原爆、東京大空襲をはじめとした本土各地での空襲を見て分かる通り、米国の攻撃は(日本も同様だが)民間人に被害を及ぼすことなど全くと言っていいほど考慮されない。

 北はアリューシャン列島から南はインドネシアやニューギニアあたりまで、朝鮮半島、台湾、インドシナ半島、小笠原諸島、マリアナ諸島、フィリピンの周辺やインド洋、そしてもちろん日本列島の沿岸で。まさに、日本列島の何十倍もの広さの海域にわたってこうした船は沈められた。

沈められた日本の商船の数は7240隻

 その数は、戦後の日本政府のまとめによると、商船を中心に漁船・機帆船を含めて7240隻に上る。そして約6万人の船員と59000人の民間人、10万人余の軍人が戦没船とともに亡くなった。

 そのなかで象徴的な船をいくつか挙げるとすれば、まず対馬丸である。戦況が厳しくなってきた1944年8月に子供たちを沖縄から本土へ疎開させようとした学童疎開船の対馬丸は潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、700人以上の子供たちが亡くなった。

 沈没した場所は、2009年夏に皆既日食が見られる絶好のポイントとして話題になったトカラ列島悪石島のそばで、乗船者1788人のうち約8割が死亡・行方不明となった。那覇には対馬丸記念館もできているほど特別な船である。

 また、終戦間際の1945年4月に台湾海峡で沈められた阿波丸の沈没をめぐっては戦後に至っても日米間で賠償問題が議論された、これもまた特殊な船である。